でもなかつた。賦性豪邁なる柏軒は福山に奉職することを欲せず、兄も亦これを弟に強ふることを欲せなかつたのである。丙辰の筮仕《ぜいし》は柏軒が数多《すうた》の小事情に絆《ほだ》されて、忍んで命を奉じたのであつた。既にして此年に至り、柏軒は将軍に謁した。是は亡兄画策の功程《こうてい》が一歩を進むることを得たのだと云ふことである。

     その三百五

 此年丁巳十二月十三日に、柏軒の妻|俊《しゆん》が四十八歳で歿した。俊の病は今これを詳《つまびらか》にすることが出来ぬが、此冬|疾《やまひ》の作《おこ》つた初に、俊は自ら起つべからざるを知つて、辞世の詩歌を草し、これを渋江抽斎の妻|五百《いほ》に似《しめ》した。五百は歌を詠じて慰藉した。抽斎は屡《しば/\》俊の病を問うたが、或日帰つて五百に謂《い》つた。「お俊さんはもう長くは持つまい。昨日までは死ぬる死ぬると云つてゐたのに、今日は病気が直つたらどうするのかうするのと云つた。あれは悪い兆候だ」と云つた。俊は二三日の後に死んださうである。
 俊は既に記した如く狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の女《ぢよ》で、才名一時に高かつた。其性行は概ね上《かみ》の婚嫁の条に云ふ所に尽きてゐる。わたくしは此に俊の一奇癖を補記する。それは俊が森枳園と同じく蛞蝓《なめくぢ》を嫌つて、闇中に蛞蝓を識つたと言ふことである。
 此年池田氏の宗家で二世|瑞仙晋《ずゐせんしん》が七十七歳で歿した。武鑑に「寄合御医師、二百表、下谷新屋敷、池田瑞仙」と記するものが是である。新屋敷とは柳原岩井町代地であらう。武鑑は同時に「御目見医師、下谷三枚ばし、池田瑞長」を載せてゐる。是が京水の嫡男|天渓直頼《てんけいなほより》であらう。三枚橋の家は京水の旧居である。
 小島氏では春沂抱沖《しゆんきはうちゆう》が此年|閏《じゆん》五月八日に歿して、弟|春澳瞻淇《しゆんいくせんき》が順養子となつた。瞻淇の日記を閲《けみ》するに、柏軒は五月二十八日、森枳園は閏五月二日に往訪した。彼は死前十日、此は六日であつた。春沂は此年の武鑑に「寄合御医師、百表、日本橋榑正町」と記してある。瞻淇の家督相続は次年戊午三月に至つて許された。
 多紀氏宗家では暁湖元※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]《げうこげんきん》が此年十月二十七日に歿して、弟|棠辺元佶《たうへんげんきつ》
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