け》は早くより開国の意見を持せられ、正弘の措置はかばかしからざるを慨し、侍医伊沢良安をして置毒《ちどく》せしめられ候。良安の父辞安、良安の弟磐安、皆此機密を与《あづ》かり知り、辞安は事成るの後、井伊家の保護の下に、良安、磐安兄弟を彦根に潜伏せしめ候。」
「右の伝説は真偽不明に候へ共、私の聞及候儘を記載候者に有之候。若し此事真実に候はゞ、辞安|仮令《たとひ》学問に長《た》け候とも、其心術は憎むべき極《きはみ》に可有之《これあるべく》候。何卒詳細御調査之上、直筆|無諱《いむことなく》御発表相成度奉存候。私に於ても御研究に依り、多年の疑惑を散ずることを得候はゞ、幸不過之候。頓首。」
 わたくしはこれを読んで大に驚いた。或は狂人の所為《しよゐ》かと疑ひ、或は何人かの悪謔に出でたらしくも思つた。しかし筆跡は老人なるが如く、文章に真率なる処がある。それゆゑわたくしは直《たゞち》に書を作つて答へた。大要は阿部正弘の病死は蘭軒辞安の歿後十八年、榛軒長安の歿後五年の事であつて、正弘の病を療したのは榛軒にあらずして柏軒磐安である、父子三人皆彦根に居つたことがない、此説の虚伝なることは論を須《ま》たぬと云ふのであつた。わたくしは朽木氏の存在を疑つて、答書の或は送還せられむことを期してゐた。
 何ぞ料《はか》らむ、数週の後に朽木氏の訃音が至つた。朽木氏は生前《しやうぜん》にわたくしの答書を読んだ。そして遺言して友人をしてわたくしに書を寄せしめた。「御蔭を以て伝説に時代相違のあることを承知した。大阪毎日新聞を購読して、記事の進陟《しんちよく》を待つてゐるうち、病気が重体に陥つた。柏軒の阿部侯を療する段を読まずして死するのが遺憾だ」と云ふのであつた。
 按ずるに朽木氏の聞き伝へた所は、丁巳の流言が余波《なごり》を僻陬《へきすう》に留めたものであらう。

     その三百四

 わたくしは丁巳の歳六月十七日に阿部正弘が柏軒の治療を受けて世を去つたことを記した。中一日を隔てて、未だ喪を発せられざるに、棠軒が駿府に赴く命を拝した。正弘の喪は二十七日に至つて始めて発せられたのである。
 棠軒公私略にかう云つてある。「丁巳六月十九日隼人様駿府御加番御供在番被仰付。」隼人《はいと》とは誰か。わたくしは浜野氏に請うて旧記を検してもらつた。
 正弘六世の祖備中守|正邦《まさくに》の季《すゑ》の子に小字《せう
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