その二百九十六

 此年丙辰に狩谷氏では三|平懐之《ぺいくわいし》が歿した。七月二十日に五十三歳で歿したのである。継嗣は三右衛門|矩之《くし》である。矩之は本斎藤氏で、父を権右衛門と云つた。其質店三河屋は当時谷中善光寺坂下にあつたが、今猶本郷一丁目に存続してゐる。権右衛門に三子があつた。長は源之助、仲は三右衛門矩之、季は家を嗣いだ権右衛門である。
 矩之の兄源之助は、清元延寿太夫である。延寿太夫は初代が文政八年中村座よりの帰途《かへりみち》に、乗物町和国橋で人に殺された岡本吉五郎、二代が吉五郎の子|巳三次郎《みさじらう》、後に所謂名人太兵衛、三代が安政四年に地震に遭つて死んだ町田繁次郎、四代が矩之の兄源之助である。「舌切心中」の為損じをしたので名高く、明治三十七年に至るまで生存し、七十二歳の寿を享けた。今の延寿太夫は五代目である。丙辰には源之助二十四歳、矩之十四歳であつた。
 岡西氏では七月に玄亭の父栄玄が歿し、十一月に玄亭が歿した。継嗣は十八歳の養玄であつた。後に伊沢氏の初の女婿《ぢよせい》全安と柏《かえ》との間に生れた女《むすめ》梅を娶《めと》るのは此養玄である。
 此年棠軒二十三、妻柏二十二、女長三つ、良《よし》一つ、全安の女梅七つ、柏軒並妻俊四十七、妾春三十二、男鉄三郎八つ、女洲十六、国十三、安五つ、琴二つ、榛軒未亡人志保五十七であつた。
 安政四年は蘭軒歿後第二十八年である。此年伊沢氏の主家に代替があつた。
 阿部伊勢守正弘は三四月の交《かう》病に罹り、五月以後には時々《じゞ》登城せぬ日があり、閏《じゆん》五月九日より竜口《たつのくち》用邸に引き籠り、六月十七日午下刻に瞑した。享年三十九歳である。正弘は盛年にして老中の首席に居り、独り外交の難局に当り、後年勝安芳をして、「開国首唱の功も亦此人に帰せざるを得ず」と云はしめた。攘夷論の猶盛であつた当時、毀誉の区々《まち/\》であつたのは怪むに足らない。
 正弘の病は終始柏軒が単独にこれが治療に任じた。正弘は柏軒に信頼して疑はず、柏軒も亦身命を賭して其|責《せめ》を竭《つく》したのである。
 越前国福井の城主松平越前守|慶永《よしなが》は匙医|半井《なからゐ》仲庵をして正弘の病を問はしめ、蘭医方を用ゐしめようとした。福井藩用人中根|靱負《ゆきえ》の記にかう云つてある。「蘭家の御薬勧めまゐらすべきよし(中略)伊勢
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