者があつた。又斎の子が亦斎《えきさい》で、家業を嫌ひ、篆刻を学び、後には所謂戯作者の群に投じ、雑書を著して自ら紫軒道人《しけんだうじん》と署した。此紫軒の著す所に「茶番頓智論」二巻があつて刊行せられた。書中には塩田良三の作も収められてゐた。其一は豊臣秀頼が石清水八幡宮に詣でた時、明智光秀の女《ぢよ》がこれを刺さうとすると云ふ筋の作であつたさうである。
 わたくしは小野の家の茶番が、河原崎座の吾嬬下《あづまくだり》五十三|次《つぎ》興行と同時であつたことを言つた。然らば茶番の時は即ち八月狂言の時で、八月狂言の時は即ちスタアリングの率ゐた英艦隊の長崎に来舶してゐた時である。人或はその佚楽戯嬉《いつらくきき》の時にあらざるを思つて、茶番の彼人々の間に催されたのを怪むであらう。しかしそれは民衆心理を解せざるものである。上《かみ》に病弱なる将軍家定を戴き、外《ほか》よりは列強の来り薄《せま》るに会しても、府城の下《もと》に遊廓劇場の賑つたことは平日の如く、士庶の家に飲讌等の行はれたことも亦平日の如くであつただらう。近く我国は支那と戦ひ露西亜と戦つたが、其間民衆は戯嬉を忘れなかつた。啻《たゞ》に然るのみならず、出征軍陣営中の演劇は到る処に盛であつた。わたくしは従征途上に暫く広島に駐《とゞ》まつたことがある。其時人々が争つて厳島に遊んだ。「生きて還るかどうか知れないから、厳島でも観て置かう」と云つたのである。わたくしは同行を辞して、「厳島を観て死ぬるも、観ずに死ぬるも、大した違は無いやうだ」と云つて、人々に嗤《わら》はれた。

     その二百八十七

 此年甲寅に森枳園が躋寿館の講師にせられた。枳園は是より先嘉永紀元戊申に阿部侯に召還せられ、其年館の校正方になつてゐた。館にあること七年にして講師の命を拝したのである。
 枳園の妻勝は夫の受けた沙汰書を持つて丸山の伊沢氏を訪ひ、これを榛軒の位牌の前に置いて泣いた。夫の今日あるは亡き榛軒の賜《たまもの》だとおもつたからである。榛軒の歿した時、棠軒は父の遺物として、両掛入薬籠《りやうがけいれやくろう》と雨具一式とを枳園に贈つたさうである。
 此年渋江氏では抽斎の長男|恒善《つねよし》が歿した。榛軒の門人録には「渋江道陸」として載せてある。矢島|優善《やすよし》の兄である。
 門田朴斎《もんでんぼくさい》の江戸より福山に帰つたのも亦此
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