ことは出来ぬと云つてことわつた。是は尤の事なので、わたくし共は諦めた。河原崎座の狂言は二人共度々見たが、なか/\白《せりふ》を諳《そらん》じ尽すわけには行かぬので、それから毎日二人で立見に往つた。さて仕組に掛かつて、天一坊はお三婆殺しと横田川巡礼殺しとを出し、地雷也は妙高山と地獄谷とを出し、それにお軽勘平の道行を出して、此道行に落《おち》を附けることにした。本はどうやら出来上つて、それから役割をすることになつた。稽古の場所は始から極まつてゐて、丸山の伊沢である。これは榛軒在世の時からの慣例で、榛軒は役を引き受けたことはないが、柏軒は其頃からわたくし共の夥《なかま》にはいつた。」
 塩田氏の談話は未だ尽きぬが、わたくしは此に註を插《さしはさ》みたい。此茶番が此年甲寅に催されたと云ふことは、天一坊書卸の年と云ふより推すことが出来る。作者河竹新七は後の黙阿弥で、所謂天地人に象つた作は「吾嬬下《あづまくだり》五十三次」である。此年新七は、三月に中村座から転じて来て、忍《しのぶ》の総太を演じた四代目市川小団次に接近した。所謂「都鳥廓白浪《みやこどりながれのしらなみ》」である。次が八月狂言の「吾嬬下五十三次」で、天一坊は小団次、地雷也は嵐|璃寛《りくわん》、お六は坂東しうかであつた。
 小野氏は渋江氏の親戚である。当時|道瑛令図《だうえいれいと》が猶|健《すこやか》であつた。抽斎の祖父|本皓《ほんかう》の実子で、甲寅には七十二歳になつてゐた。令図の嫡子|道秀富穀《だうしうふこく》は四十八歳、富穀の子道悦は十九歳であつた。「子供の祝事」とは恐くは道悦の子女の七五三などであつただらう。
 茶番の為組をした矢島は抽斎の次男|優善《やすよし》で、三年前辛亥に矢島玄碩の末期養子となつたのである。甲寅には二十歳、当時|良三《りやうさん》と称してゐた談話者塩田氏より長ずること二歳であつた。

     その二百八十四

 わたくしは塩田氏の語る所の茶番の事を此年甲寅の下《もと》に繋《か》けた。茶番は小野令図一家のために催されたもので、恐くは令図の曾孫の七五三などの祝であつただらう。狂言の種は河竹新七作の吾嬬下五十三次より取つて、これに忠臣蔵を接続し、矢島優善と塩田氏とが筆を把つた。稽古の場所は棠軒の家であつた。塩田氏は下《しも》の如くに語を続いだ。
「是は素人狂言の常で、実は本職の役者の間に
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