ども、此頃日本に行はれし西洋家の医師に未だ十分の信用を置かず、是れ洋式医師の未だ経験に乏しき輩多きのみならず、西洋に於ける斯学の真訣未だ全く伝らざるに由来せしなりとぞ、阿部勢州又其後小栗上州なども亦斯る説ありしと聞けり」の文である。小栗上州《をぐりじやうしう》は上野介忠順である。
此年棠軒二十、妻柏十九、全安の女梅四つ、柏軒並妻俊四十四、妾春二十九、子鉄三郎五つ、女洲十三、国十、安二つであつた。
その二百八十三
安政元年は蘭軒歿後第二十五年である。前年癸丑十一月十三日に徳川家定に将軍宣下があつて、阿部正弘は将軍宣下用掛を勤めた。外交はペリの米艦隊の去つた後、プウチヤチイヌの露艦隊が癸丑七月十八日を以て長崎に入り、次でペリの艦隊が此年甲寅正月十日を以て再び浦賀沖に来た。正弘等の浦賀に派した応接掛の中には、蘭軒等の総本家の当主、此稿の首《はじめ》に載せた伊沢|美作守政義《みまさかのかみまさよし》が加はつてゐた。一行の首席は復斎林※[#「光+韋」、第4水準2−92−12]《ふくさいりんゐ》で、随員には柳浪松崎純倹《りうらうまつざきじゆんけん》があつた。此折衝の結果は日米間に締結せられた下田条約で、尋で日英、日露の条約も亦此甲寅の年に成つたのである。
棠軒の家には正月に長女|長《ちやう》が生れた。公私略に「甲寅正月廿四日朝卯中刻女子出産、名長」と云つてある。後に津山碧山に嫁した長子刀自である。
其他には棠軒の分家にも、柏軒の又分家にも特に記すべき事が無い。しかし塩田真さんの語る所に拠れば、当時の此二家の平和なる生活を窺ふに足るものがある。
塩田氏はかう云つた。「いつの事であつたか、小野の家に子供の祝事があつて、茶番の催をしたことがある。狂言名題は其頃河原崎座で興行してゐたものに依つた。河原崎座は天地人に象《かたど》つて、天は天一坊、地は地雷太郎、人は人麿お六であつた。天一坊は当時の河竹新七が小団次のために書卸したものであつた。こちらは其天地だけを取つて、人麿お六の代に忠臣蔵三段目の道行を出すことにした。此催の発起人は柏軒で、狂言|為組《しくみ》は矢島とわたくしとの受持であつた。平生から矢島は河竹の差図を受け、わたくしは桜田治助の差図を受けてゐたので、此時矢島が河竹へ正本《しやうほん》を借りに往つた。然るに河竹は、いかに心安い間でも、興行中の正本を貸す
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