蘭軒が長崎へ往つた年である。蘭軒が能く此旅を思ひ立つたのを見れば、当時足疾は猶軽微であつたものと察せられる。※[#「くさかんむり/姦」、7巻−56−下−13]斎《かんさい》詩集に往路の作六十三首を載せてゐる外、集中に併せ収めてある「客崎詩稿」の詩三十六首がある。又別に「長崎紀行、伊沢信恬撰」と題した自筆本一巻がある。墨附三十四枚の大半紙写本で、「伊沢氏酌源堂図書記」「森氏」の二朱印がある。格内毎半葉十二行、行十八字乃至二十二字である。此書も亦、彼詩集と同じく、富士川游さんの儲蔵する所となつてゐる。
蘭軒の長崎行は、長崎奉行の赴任する時に随行したのである。長崎奉行は千石高で、役料四千四百二俵を給せられた。寛永前は一人を置かれたが、後二人となり三人となり四人となり、文化頃には二人と定められてゐた。文化二年に職にゐたのは、肥田豊後守|頼常《よりつね》、成瀬|因幡守正定《いなばのかみまささだ》であつた。然るに肥田頼常が文化三年正月に小普請奉行に転じ、三月に曲淵和泉守景露《まがりぶちいづみのかみけいろ》がこれに代つた。蘭軒は此曲淵景露の随員となつて途に上つたのである。序に云ふが、徳川実記は初め諸奉行の更迭を書してゐたのに、経済雑誌社本の所謂《いはゆる》続徳川実記に至つては、幕府末造の編纂に係る未定稿であるから、記載極て粗にして、肥田曲淵の交代は全く闕けてゐる。今武鑑に従つて記することにした。
蘭軒略伝には蘭軒は榊原|主計頭《かぞへのかみ》に随つて長崎に往つたと云つてある。文化中の分限帳を閲《けみ》するに、「榊原主計、三百石、かがやしき」としてある。しかし文化三年の役人武鑑はこれを載せない。按ずるに榊原主計は当時無職の旗本であつたであらう。此榊原が曲淵の一行中に加はつてゐたかどうかは不明である。
蘭軒は五月十九日に江戸を発した。紀行に曰く。
「文化丙寅五月十九日、長崎|撫院《ぶゐん》和泉守曲淵公に従て東都を発す。巳時板橋に到て公|小休《こやすみ》す。家大人《かたいじん》ここに来て謁見せり。余|小茶店《せうちやてん》にあり。頼子善《らいしぜん》送て此に到る。午後駅を出て小豆沢《あづさは》村にいたる。小民《せうみん》勘左衛門の園中一根八竿の竹あり。高八尺|許《きよ》、根囲《ねのめぐり》八寸許の新竹也。二里八丁蕨駅、一里八丁浦和駅、十一里十二丁大宮駅。亀松屋弥太郎の家に宿す。此
前へ
次へ
全567ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング