もとあきら」と訓ませたものらしい。上《かみ》に引いた東席順《とうせきじゆん》に「御広間番格奥御医師石川貞白五十八」と云つてある。然らば石川は文化八年生で、榛軒より少きこと七歳であつた。飯田安石は榛軒門人録に見えてゐる。東席順に「表御医師無足飯田安石四十五」と云つてある。然らば文政七年生であつた。此人の事は猶後に再記するであらう。森養真は枳園《きゑん》の子|約之《やくし》である。東席順に「御広間番格奥御医師無足森養真三十四」と云つてある。その天保六年生であつたことは既に記した。井戸勘一郎は柏軒の嗣子|磐《いはほ》の「親類書」に徴するに、蘭軒の女《ぢよ》長《ちやう》の夫井戸応助の子である。肩書に「御先手福田甲斐守組仮御抱入」と云つてある。上原全八郎は阿部家の料理人である。東席順に「総無足料頭上原全八郎五十六」と云つてある。然らば文化十年生で榛軒より少《わか》きこと九歳であつた。「料頭」は料理人頭歟。

     その二百七十二

 わたくしは既に榛軒の逸事中医治に関する事を録した。そして其末に口碑の伝ふる所の病家を列挙した。此よりは榛軒の友及榛軒時代に伊沢氏に出入した人々の事を言はうとおもふ。
 森枳園は榛軒のためには父の遺弟子である。蘭門の諸子は蘭軒の在世中若先生を以て榛軒を呼び、その歿するに至つて、先生と改め呼んだことは既に云つた如くである。そして青年者《せいねんしや》は真に榛門に移つた。しかし年歯の榛軒と相若《あひし》くものは、前《さき》より友として相交つてゐたので、其関係は旧に依つた。枳園の如きは其一人である。枳園は榛軒より少《わか》きこと僅に三歳であつた。
 曾能子刀自は二人の間の一事を記憶してゐる。或日榛軒は本所の阿部邸に宿直した。其翌日は枳園の来り代るべき日であつた。交代時刻は辰の刻であつた。然るに枳園は来なかつた。榛軒は退出することを得ずに、午餐を喫した。枳園は申の刻に至つて纔《わづか》に至り、深く稽緩《けいくわん》の罪を謝した。
 榛軒は帰途に上つて、始めて此日徳川将軍の「お成《なり》」のために交通を遮断せられたことを聞き知つた。枳園は罪を謝するに当つて、絶てこれを口に上せなかつた。
 榛軒は後に人に謂つた。「森は実に才子だ。若しあの時お成で道が塞がつて遅れたと云つたら、己はきつとなぜお成の前に出掛けなかつたと云つたに違ない。森は分疏《いひわけ》になら
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