歌はれたことは既に上《かみ》に記した。
 榛軒は初め轎丁《かごかき》四人と草履取二人とを抱へてゐた。しかし阿部邸内の仲間等が屡《しば/″\》喧嘩して、累を主人に及ぼすことが多かつたので、榛軒は抱の数を減じてこれを避けようとした。そこで草履取のみを留めて、轎丁は総て駕籠屋忠兵衛と云ふものに請負はせることとした。
 曾能子刀自の記憶してゐる仲間の話がある。某《それ》の年の暮の事であつた。伊沢氏では餅搗をした翌日近火に遭つた。知人《しるひと》が多く駆け附けた中に、数日前に暇《いとま》を遣つた仲間が一人交つてゐた。火は幸に伊沢の家を延焼するに及ばなかつた。其次の日に仲間の請宿の主人《あるじ》が礼を言ひに来た。「昨日はお餅を沢山頂戴いたして難有うございます。手前共ではまだ手廻り兼ねて搗かずにゐましたので、大勢の子供が大喜をいたしました」と云つたのである。榛軒が餅を調べて見させると、まだ切らずに置いた熨餅《のしもち》が足らなかつた。逐はれた仲間が背中に入れて還つたのであつた。
 榛軒は病家を択んで治を施した。富貴の家は努めて避け、貧賤の家には好んで近づいた。毎《つね》に「大名と札差の療治はせぬ事だ」と云つた。しかし榛軒が避けむと欲して避くることを得ずに出入した大名の家は、彼の輓詩を寄せた棚倉侯の外に数多《すうた》あつたことは勿論である。又札差を嫌つたのは、札差に豪奢の家が多かつたからである。因《ちなみ》に云ふ。旗本伊沢氏の如きは榛軒がためには宗族であつた。所謂「総本家」であつた。しかし榛軒は絶て往訪せずにしまつた。
 俳優は当時病家として特別の地位を占めてゐた。俳優は河原者として賤者である。目見以上の官医は公にこれをみまふことを得ない。然れども医にして技を售《う》らむことを欲するものは皆俳優の家に趨つた。
 榛軒は例として俳優の請には応ぜなかつた。「立派な腕のある医者が幾らもあつて見に往つて遣るのだから、何も己が往くには及ばない」と云つてゐた。只市川団十郎父子の病んだ時だけは此例に依らなかつた。団十郎は即七代目と八代目とである。七代目団十郎は人格も卑しからず、多少文字をも識つてゐて、榛軒は友として遇してゐたので、其継嗣にも親近したのである。
 榛軒は市川の家を訪ふに、先づ轎《かご》に乗つて堀田原《ほつたはら》に住んでゐる門人坂上玄丈の家に往き、そこより徒歩して市川の家に至つた。
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