ら、わたくしは榛軒先生の宅へ往つた。わたくしは切角先生に喜んで貰はうと思つて往つたのに、先生はもう亡くなつてをられた。丁度わたくしが宗の邸へ出頭した時瞑目せられたのであつた。」
 当時の宗対馬守は義和《よしより》であつた。多紀の三人は宗家の安良が暁湖元※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]《げうこげんきん》、分家の楽真院が※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭元堅《さいていげんけん》、安琢が雲従元※[#「王+炎」、第3水準1−88−13]《うんじゆうげんえん》である。
 渋江保さんの云ふには、此賞詞は其仲兄|優善《やすよし》が共に受けて、礼廻をも共に済ませたのださうである。真さんは渋江抽斎と其長子六堂|恒善《つねよし》との教をも受けてゐたので、優善とは親善であつた。

     その二百六十二

 榛軒の喪は此年嘉永壬子十一月十七日に発せられた。遺骸は麻布|長谷寺《ちやうこくじ》に葬られた。墓は上《かみ》に記した如く、父蘭軒の墓と比《なら》んで立つてゐる。
 葬《とぶらひ》の日は伝はらない。会葬者は甚だ衆く過半は医師で総髪又は剃髪であつた。途《みち》に此行列に逢つた市人等は、「あれは御大名の御隠居のお葬だらう」と云つたさうである。
 此日長谷寺には阿部家の命に依つて黒白の幕が張られた。大目附以上のものゝ葬に準ぜられたのである。会葬者には赤飯《あかめし》に奈良漬、味噌漬を副へた辨当が供せられた。初め伊沢氏で千人前を準備したが、剰す所は幾《いくばく》もなかつたさうである。
 輓詩《ばんし》は只一首のみ伝はつてゐる。誠園《せいゑん》と署した作である。「余多病、託治於福山侍医伊沢一安久矣、今聞其訃音、不堪痛惜之至、悵然有詠。天地空留医国名。何図一夜玉山傾。魂帰冥漠茫無跡。耳底猶聞笑語声。」「誠園稿」と書して、「爵」「守真」の二印がある。引首《いんしゆ》は「天楽」である。初めわたくしはその何人なるを知らなかつたが、偶《たま/\》寧静閣集を読んで誠園の陸奥国白川郡棚倉の城主松平周防守|康爵《やすたか》であることを知つた。一安は榛軒の晩年の称である。和歌は石川貞白の作一首がある。「あひおもふ君が木葉と散りしより物寂しくもなりまさりけり。元亮。」
 曾能子刀自の語るを聞けば、此日俳優市川海老蔵と其子市川三升とが、縮緬羽二重
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