古※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]」は、若し上《かみ》の推測の如くだとすると、病婦久の夫であらう。是日は※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の第十三回忌であつた。浦と安とは二女の名である。初め江戸を発した日に、「日野屋に立寄る」の文があつた。「日野屋両老人、浦安二女」は江戸の尾張町の日野屋の家族であらう。「主人平治」は松坂屋寿平治である。その「主人」と云ふを見れば、榛軒の松坂屋に舎《やど》つてゐたことが知られる。函嶺の第八日である。
「五日、晴、残炎甚。(中略。)宮城野より明神嶽へ上り、最上寺《さいじやうじ》に参詣。上路屈曲、深谷危径、一人も逢ふ人なし。途中桃を里に運ぶ老人に逢ふ。数顆を買ひ、水漿《すゐしやう》に代て渇を医す。山上に小田原在の民馬を牽来り草を苅る。満山あせび、ぶな、うつ木にて大木はなし。最上寺下り口に石長生《せきちやうせい》多し。一丁程大石の挾路《みちをさしはさむ》所あり。右の方に聊の寒泉あり。氷寒|沁骨《こつにしんす》。最上寺にて茶を乞、行厨《かうちゆう》を開く。近辺|細辛《さいしん》多し。帰路山上にて冷酒一杯を飲む。(中略。)此日塩柏葦湯に行。木賀の辺にて逢伴帰。」わたくしは榛軒の父蘭軒と同じく本草に通じてゐたことを示さむがために、多く上文を刪《けづ》らなかつた。榛軒の妻子を伴ひ帰つた家は、木賀の松坂屋ではなくて、宮下の奈良屋である。函嶺の第九日である。

     その二百五十四

 わたくしの抄する所の弘化丁未の湘陽紀行は、既に七月五日榛軒が函嶺宮下奈良屋に舎《やど》つた日に至つてゐた。榛軒は山中にあること既に九日であつた。
「六日、晴。奈良屋出立。(中略。)湯元の福住九蔵の家に投宿す。」宮下より湯元に遷つたのが、函嶺の第十日であつた。
「七夕、晴。渓石を拾ひ、新筆墨にて五彩箋に書し、二星に供す。塩柏隆白忠兵衛を送り三枚橋に到り別る。(中略。)暮合《くれあひ》福住を出で、風祭《かざまつり》より松明《たいまつ》にて(道を照し、)小田原大清水家に投宿す。元小清水泊の所、指合《さしあひ》にて、隣家にて食事を辨じ、一宿す。」山中にあること十日の後、此日先づ妻子をして帰途に就かしめ、尋《つい》で山を下つて小田原に舎《やど》つたのである。榛軒詩存に「山水自画賛」の七絶がある。「分松寸石雲烟冷。政是山渓欲暁時。記来当日函関路。三枚橋辺別女児
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