ない。しかし既に霧渓の師であつたと云へば、杏春より長じてゐたことは勿論であらう。又霧渓よりも長じてゐたであらう。霧渓は杏春より長ずること二歳であつた。
 杏春の去つた後、沢は夫に文仲を養はむことを勧めたであらう。しかし夫瑞仙は聴かずに、養子を他家に求めた。先づ山脇道作の子が来り、次に堀本一|甫《ぽ》の子が来り、最後に田中俊庵の子が来つた。そして三人皆沢に斥《しりぞ》けられた。
 武鑑を検するに、山脇道作は「法眼、寄合御医師、五十人扶持、京住居」と云つてある。堀本一甫は「奥御医師、御口科、二百俵十人扶持、築地中町」と云つてある。独り田中俊庵と云ふものが当時の幕府医官中に見えぬが、わたくしは前二人が官医であるより推して、田中も亦官医であらうとおもふ。わたくしは是は田中|俊川《しゆんせん》を謂つたものであらうとおもふ。田中俊川は武鑑に「表御番医師、百五十俵、芝田七丁目」と云つてある。「芝田」は芝の田町であらう。
 山脇、堀、田中三氏の子が相踵《あひつ》いで逐はれた後に、当時籍を瑞仙の門人中に列してゐた上野国|上久方村《かみひさかたむら》医師村岡善左衛門|常信《つねのぶ》倅善次郎が養子にせられた。即ち霧渓二代瑞仙|直郷《なほさと》、又の名は晋《しん》である。
 霧渓はいかにして池田宗家に留まることを得たかと云ふに、是は沢が夫の到底文仲を養ふに意なきを見て、文仲を家に迎ふることを断念し、霧渓を養ふことを賛成したからである。霧渓は文仲の旧弟子であつた。天明四年生の霧渓は当時十八歳になつてゐた。その公《おほやけ》に稟《まう》して養嗣子とせられたのは、此より十五年の後、文化十三年三月である。瑞仙の死に先《さきだ》つこと六箇月である。霧渓は既に三十三歳になつてゐた。
 わたくしは此に杏春の生父玄俊の師の一人が京都の産科医賀川玄吾であつたことを回顧する。池田瑞仙が杏春|去後《きよご》に霧渓をして家を継がしめたのは、玄吾の生父初代玄悦が玄吾去後に岡本|玄迪《げんてき》をして家を継がしめたと、其迹が甚だ相類してゐる。玄吾と杏春との間には、実子と養子との別はあるが、その父の後妻に悪《にく》まれたことは同じである。又杏春が他年一家を樹立して宗家と相譲らざるに至つたことも、其生父の廃儲《はいちよ》であつた有斎玄吾と相似てゐる。
 わたくしは此より池田宗家を去つた後の杏春|改《あらため》瑞英の事蹟
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