氏には正に一の悲壮劇があつた。そして其主人公は京水即当時の杏春であつた。
池田の家の床下に埋蔵せられてゐた火薬は終に爆発した。それは京水廃嫡一件である。
三世瑞仙直温の先祖書にはかう云つてある。「病気に而末々御奉公可相勤体無御坐候に付、総領除奉願候処、享和三亥年八月十二日願之通被仰付候。」しかし今|細《こまか》に検すれば、此一件は瑞仙が嫡子を廃したのではなく、杏春が継嗣を辞したのである。且此事のあつた年は、享和三年癸亥ではなく、享和元年辛酉である。按ずるに癸亥は事後に官裁を仰いだ年であらう。
京水自筆の巻物中参正池田家譜|善直《よしなほ》の条には、「享和元年病に依て嗣を辞するの後瑞英と改む」と書してある。嗣を辞したのと、杏春を瑞英と改めたのとは、辛酉の出来事である。当時養父錦橋六十六、養母沢三十七、杏春の瑞英十六であつた。
此一件の詳なるは、京水瑞英の家に「生祠記」一巻があつて具《つぶさ》に載せてあつたさうである。京水は「辞嗣の始末は生祠記に詳也」と云ひ、又「行状別に生祠記一巻あり、門人等録する所なり、其言頗る過誉なりと雖も、未た必しも偽なし、故に子孫其書に就て余が始終を見るへき者なり」と云つてゐる。生祠記《せいしき》は惜むらくは佚した。少くも池田全安さんの家には存してゐない。
生祠記は既に佚した。しかし京水は養父の幕府に呈した系図を写して、其後に数行の文を書した。わたくしは此書後に由つて生祠記の内容の一端を知ることを得た。京水の辞嗣は霧渓の受嗣と表裏をなしてゐて、其内情は下《しも》の如くである。
「右直郷(霧渓二世瑞仙晋)は初佐佐木文仲の弟子なり。文仲は於沢の方に愛せられて、遂に余を追て嗣とならむの志起り、種々謀計せしかど、余辞嗣の後にも養子の事(文仲自ら養子となる事)成らず、終に直郷に定りたり。其間山脇道作の男玄智、瑞貞と云、堀本一甫の男某、田中俊庵の男、瑞亮と云、皆一旦は養子となれども、何れも於沢の方と文仲に追出されたり。善直(京水瑞英)誌。」
その二百三十二
わたくしは池田京水、当時初代瑞仙の養嗣子杏春が宗家を継ぐことを辞した内情を語つた。杏春は養母沢に悪《にく》まれて家を出でた。沢は佐佐木文仲と云ふものと謀つて、杏春をして去らしめた。それは沢が文仲をして杏春に代らしめようとしたのである。佐佐木文仲の何人なるかは、わたくしは未だ考へ
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