ゆきである。
 嶺松寺の廃せらるるに当つて、二世全安は祖父京水の卑属たる池田分家並に又分家の両家の諸墓を処分せしめ、一石を巣鴨共同墓地に立てゝ「池田家累世之墓」と題した。是は宗家の裔鑑三郎さんが錦橋霧渓一系の合墓《がふぼ》を上野共同墓地に立てたと同時の事である。嶺松寺池田氏の諸墓は此時二地に分ち徙《うつ》され、その宗家に係《か》かるものは鑑三郎に由つて上野へ遣られ、その分家と又分家とに係かるものは二世全安に由つて巣鴨へ遣られたのである。
 是に於てわたくしは向島弘福寺主の言ふ所の無根拠でなかつたことを知つた。寺主は巣鴨に移された墓の事を聞いて、上野に移された墓の事を聞かなかつたのである。
 然らばわたくしが巣鴨に尋ねて往つた時、毫も得る所なくして帰つたのは何故であつたか。墓地の管理をする家の女は、わたくしに墓には皆檀家あり、檀家に池田氏なきを以て答へたのであつた。そして女はわたくしを欺かなかつた。二世全安は嘗て一たび池田両分家の合墓を巣鴨に立て、後又これを雑司谷共同墓地に徙した。わたくしの巣鴨に往つたのは此|遷徙《せんし》の後であつた。
 今は錦橋霧渓一系の合墓が上野にあり、京水瑞長系と京水全安系との両系の合墓が雑司谷にあるのである。
 そして京水の墓誌は永遠に湮滅《いんめつ》してしまつた。其全文を読み、其撰者の誰なるを知らむと欲するわたくしの望の糸は此に全く断ち切られたのである。

     その二百二十一

 わたくしが池田京水墓誌の全文を読み又其撰者の誰なるを知らむと欲したのは、京水の身上に疑ふべき事があつて、わたくしはこれが解決を墓誌に求めたのである。
 然るに墓誌を刻した嶺松寺中の石は、合墓《がふぼ》が巣鴨に立てられたと共に処分せられて、墓誌の文章は此に滅びた。又わたくしの望を繋いでゐた江戸|黄檗禅刹記《わうばくぜんさつき》も京水の墓誌をば載せてゐない。
 幸に我客二世全安さんは、別に京水身上の疑を解くに足るべき文書を蔵してゐた。それは京水自筆の巻物である。
 此巻物は「文政四年冬十一月九日朝より夜の子の刻に至るの間調薬看病の暇に書、名※[#「大/淵」、8巻−52−上−1]、字河澄、号京水、一号酔醒、又号生酔道人、仏諡可用宗経」と云ふ奥書があつて、下《しも》に華押《くわあふ》がある。又他の箇所には「善直誌」と署してある。文政四年は京水三十六歳の時で、巻子中
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