名をお襲ぎなさいましたのですね。失礼ながら御実子でお出なさいますか。」
「いゝえ、わたくしは加賀の金沢のもので、池田家へ養子に参つたのです。」
「御尊父様は。」
「父は明治十四年に亡くなりました。」
わたくしの推測は偶中した。客は京水の孫であつた。京水の子全安に養はれて、其名を襲いだものであつた。
わたくしは客に池田京水に関する研究の経過を告げた。向島嶺松寺にあつた京水の墓は、曾て富士川游さんが往弔《わうてう》したのに、寺が廃せられて、他の池田氏の諸墓と共に踪跡《そうせき》を失した事、諸墓の中池田宗家に係る錦橋以下数人の墓石は、其末裔鑑三郎さんに由つて処分せられ、其|法諡《はふし》は一石に併せ刻せられて、現に上野共同墓地に存する事、然るに分家の一なる京水の一族の墓は其なりゆきを知ることを得なかつた事等である。
わたくしは江戸|黄檗禅刹記《わうばくぜんさつき》の事をも客に告げた。禅刹記に嶺松寺を載せ、併て池田氏の墓に及んでゐることは、人あつてわたくしに教へた。その錦橋の墓誌を録してゐることは推知せられる。しかし京水の墓誌は有らうか無からうか。わたくしは前《さき》に再び池田氏の事を説いた時、疑を存して置いた。後渋江保さんは上野図書館を訪ふ序に、わたくしのために禅刹記を閲《けみ》してくれた。錦橋の墓誌は収められてゐて、京水のものは収められてゐなかつたのである。わたくしは客に此憾をも語つた。
その二百二十
わたくしは池田京水の孫全安さんを引見して、先づわたくしの京水の事蹟を探討した経過を語つた。わたくしの談は探墓談であつた。是はわたくしが京水墓誌の全文と其撰者とを知らむことを欲した故である。
京水の孫全安即二世全安は、わたくしに向島嶺松寺にあつた池田分家の諸墓のなりゆきを告げた。わたくしは京水の子と孫とが同名なるを以て、以下彼を初代全安と書し、此を二世全安と書して識別し易からしむることとする。
池田分家は宗家即錦橋の家にあつて廃嫡せられた京水に由つて創立せられた。京水の後は嫡男|瑞長直頼《ずゐちやうちよくらい》が襲《つ》いだ。瑞長の弟初代全安は一たび伊沢分家に婿入して離縁せられ、後更に分立して一家を成した。伊沢氏の例に倣《なら》つて言へば、初代全安の家は「又分家」である。今二世全安のわたくしに告げた所の諸墓のなりゆきは、此分家と又分家との諸墓のなり
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