一間の階段を造らしめ、特にこれを堅牢にせむことを求めた。その出来て来たのを見れば、数人が践《ふ》んで升《のぼ》ることを得る程堅牢であつた。此雛段は久しく伊沢の家にあつて、茶番などの催さるゝ毎に、これに布を貼つて石段として用ゐられたさうである。
 此年冬榛軒は癰《よう》を病んだ。榛軒詩存に「天保七年丙申冬夜、病癰臥」の五律がある。「病夫苦長夜。一睡尚三更。風定林柯寂。月升烏鵲鳴。倦書背燈影。欹枕算鐘声。愁緒遣無地。通宵誦仏名。」

     その二百十八

 此年天保七年十一月十四日に池田|京水《けいすゐ》が歿した。柏軒が京水の家に就いて痘科《とうくわ》を聴いたことは、上《かみ》に記したるが如くである。又蘭軒門人渋江抽斎が同じく京水に学んだことは曾て抽斎の事蹟を叙するに当つて言つて置いた。京水は後に一たび榛軒の女《ぢよ》柏《かえ》の夫となるべき全安《ぜんあん》の父である。
 わたくしは抽斎の事蹟を叙して、始て其師京水に言及した。次で此年丙申に先《さきだ》つこと二十年文化丙子に、京水の養父|錦橋《きんけう》が歿した時、わたくしは再び其子京水の事を語つた。わたくしは此に養父と書した。錦橋が京水の実父なりや養父なりやは、曩《さき》にわたくしは決することを得ずに、疑問として残して置いた。しかもわたくしは実父説に重きを置いて、養父説をば一説として併せ存して置いた。是は錦橋が幕府に対して実子と申し立てゝゐたらしかつた故であつた。今わたくしは錦橋が確に寛政十二年の書上《かきあげ》に京水を以て実子となしてゐたことを知つてゐる。そして又それが虚構であつたことをも知つてゐる。
 わたくしは初に京水を語つた時と、再び京水を語つた時との間に、錦橋の宗家の後裔たる池田|鑑三郎《かんざぶらう》さんと相見た。是が研究上|稍《やゝ》大《だい》なる進歩であつたことは勿論である。
 しかしわたくしの主として知らむと欲したのは、父錦橋にあらずして子京水である。鑑三郎は嫡子京水|善直《ぜんちよく》の廃せられた後、其父錦橋の門人中より出でて宗家を継いだ霧渓晋《むけいしん》の後裔である。鑑三郎に縁《よ》つて分家京水の事を知ることは困難であつた。
 わたくしは百方捜索して京水の後裔を識らむとした。しかし久しく何の得る所も無かつた。
 然るにわたくしは本伝に錦橋の死を記した後、今京水の死を記する前、即ち再び京水を説
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