息数通、細字の文稿二三巻も亦良子刀自の許にある。蘭軒の姉正宗院と云ひ、此たかと云ひ、渋江抽斎の妻五百と云ひ、仮名|文《ぶみ》の美しきことは歎賞すべきである。たかは折々父※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に代つて歌を書いた。そして人はその孰《いづ》れか※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎にして孰れかたかなるを辨ずることを得なかつた。たかは歌を詠じ、文章を書いた。
 たかは夙《はや》く今少納言と称せられ、又単に少納言と呼ばれた。それゆゑ後に山内氏五百が才名を馳せた時、人が五百を新少納言と呼んだ。たかの少納言に対《むか》へて呼んだのである。たかは五百より長ずること七歳であつた。渋江保さんは両少納言の初て相見た時の事を母に聞いてゐる。これは大勢で川崎の大師に詣でた時で、二人を紹介したのは磯野勝五郎即後の石川貞白であつた。五百は後に「思つた程美しくはなかつた」と云つた。たかは背が低かつたさうである。
 たかは諸藝に通じてゐて、唯音楽を解せなかつた。塙検校《はなはけんぎやう》の類《たぐひ》であつたと見える。
 たかは処女時代に黒田家の奥に仕ふること三年であつた。正宗院の曾て仕へた家である。君侯のお手が附いたと云ふ虚説が伝へられたために、暇《いとま》を乞うたさうである。
 たかの柏軒に嫁したのは、自ら薦めたのださうである。「磐安《ばんあん》さんがわたしを女房《にようぼ》に持つてくれぬかしら」とは、たかの屡《しば/\》口にした所であつた。推するに橋わたしは石川であつたかも知れない。当時|懐之《くわいし》の家は富裕であつた。然るにたかはみづから択んで一諸生たる柏軒に嫁《か》したのである。
 保さんは彼「失はれたるマニユスクリイ」抽斎日乗に、五六枚の記事のあつたことを記憶してゐる。それは諸友の柏軒たかの華燭を賀した詩歌であつた。中には狂歌狂句俗謡の類で、文字の稍《やゝ》褻《せつ》に亘つたものが夾雑してゐた。女のしかけた恋だと云ふ故であつたらしい。

     その二百十七

 わたくしは渋江抽斎の日乗に、柏軒と狩谷氏たかとの合※[#「丞/巳」、8巻−45−上−5]《がふきん》を祝する詩歌、俳諧、俗謡があつて、中には稍褻に亘つたものゝあつたことを語つた。そして是がたかの自ら薦めた故であつたらしいと云つた。しかしたかの此の如き揶揄を被《かうむ》つたには、猶別に原因があるら
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