。わたくしは柏軒の雑記中に於て、柏軒が三月十六日に正宗院を溜池に訪うて逢はなかつたことを見出した。正宗院は猶溜池の比丘尼長屋に住んでゐたものと見える。
 蘭軒の門人森枳園が妻を娶《めと》つたのは此年である。妻は名を勝と云つて、鼈甲屋の娘であつたさうである。
 頼氏では石川|藤陰《とういん》が元旦に水西荘にあつて詩を賦した。「三面遅梅未著花。春風吹動柳条斜。仙遊隔世君知否。迎歳吾猶在此家。」門田《もんでん》朴斎は江戸にあつて儲君阿部正弘の侍読をしてゐたが、遠く思を水西荘に馳せて、「遙思三面闢窓処、寂寞迎春梅影疎」と云つた。夏五月には田能村竹田《たのむらちくでん》が水西荘に来り宿した。「重叩柴門感曷勝。一声認得内人※[#「應」の「心」に代えて「言」、8巻−37−下−7]。」剥啄《はくたく》の声に応ずるものは、門生にあらず、婢僕《ひぼく》にあらず、未亡人里恵であつた。
 此年蘭軒子女の齢《よはひ》は榛軒三十、柏軒廿四、長二十であつた。推するに長は既に井戸応助に嫁《か》してゐたことであらう。榛軒の妻志保は三十四歳、正宗院は六十三歳になつた。
 天保五年は蘭軒歿後第五年である。他年榛軒の嗣となるべき棠軒淳良《たうけんじゆんりやう》が、四月十四日に因幡国《いなばのくに》鳥取の城主松平因幡守|斉訓《なりみち》の医官田中|淳昌《じゆんしやう》の子として生れた。通称は鏐造《りうざう》である。母の名は八百、杉田玄白の女《ぢよ》だと、歴世略伝に云つてある。玄白とは初代玄白|翼《よく》であらうか。玄白は初め子がなかつたので、建部《たてべ》氏|伯元勤《はくげんきん》を養つて嗣とした。其後一児を挙げたのが立卿予《りつけいよ》である。女《むすめ》の事は伝に見えない。勤《きん》と予《よ》との女《ぢよ》の事も亦同じである。杉田氏の系譜を識る人の教を乞ひたい。
 頼氏では此年五月|朔《さく》に杏坪《きやうへい》が七十九歳で広島に歿した。わたくしは其集の末巻《まつくわん》を攤《ひら》いて見た。「黄葉村南人去後。毎逢花月独推敲。」此恨は蘭軒にあつては僅に一年余であつたが、杏坪にあつては七年の久しきに至つた。「旧歓杳渺多年夢。故友凄寥残夜星。」
 此年蘭軒の子女は榛軒三十一、柏軒二十五、長二十一であつた。蘭軒の姉は六十四、榛斬の継室は三十五になつた。

     その二百十三

 蘭軒歿後の第六年は天保六年
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