。「此方そばに置度と広島をぢよりせつかく申参候。」又広江氏に寄せた書には、語が杏坪に及んでゐない。余一より「書状参り」の下が、「来春余一が下り候節、子ども一人は国元にて世話いたし度と申参候」と承《う》けてある。推するに聿庵よりは直接に、杏坪よりは間接に言つておこせたのであらう。
安藝へ率て行かれる二人の中の一人は、支峰復《しほうふく》になつたらしい。わたくしは支峰の事蹟を詳《つまびらか》にせぬが、幼時一たび安藝に往つてゐたさうである。聿庵の帰郷は少し遅れて夏に入つたらしい。梁川星巌の贐《はなむけ》の詩がある。「鵑啼催得発征車。留滞江城両歳余。曾擬承歓為徳逸。豈図泣血是皋魚。愁辺新樹客衣冷。望裏白雲親舎虚。行到琵琶湖水畔。知君弔影重欷歔。」詩は夷白庵集《いはくあんしふ》一に出でてゐる。
その二百十二
頼山陽歿後の里恵の操持《さうぢ》は久しきを経て渝《かは》らなかつた。後藤松陰撰の墓誌に、「君既寡、子皆幼、而持操屹然、凡事皆遵奉遺命、夙夜勤苦、教育二孤、終致其成立」と云つてある。弘化三年五月二十七日に、京都町奉行伊奈遠江守|忠告《たゞのり》が里恵の「貞操奇特」を賞したことは、世の知る所である。是は里恵五十歳、復二十四歳、醇二十二歳の時であつた。
水西荘は後に人手に落ちて、春処《しゆんしよ》と云ふ画家がこれに居り、次で医師安藤精軒の出張所となつた。支峰復《しほうふく》は安藤に譲渡《ゆづりわたし》を請うたが聴かなかつた。此時安藤が梅田|雲浜《うんぴん》の門人であつたので、梅田の未亡人が其間に周旋した。以上の事は上野南城の話として森田思軒が記してゐる。此変遷の年月は不詳である。しかしわたくしは偶然水西荘が安藤の有に帰してゐた時の事を知つてゐる[#「知つてゐる」は底本では「知つつてゐる」]。わたくしの亡弟篤次郎の外舅《ぐわいきう》に長谷文《はせぶん》さんと云ふ人がある。此長谷氏は水西荘を安藤に借りて、これに居ること三年であつた。そして篤次郎の未亡人久子は水西荘に生れたさうである。是に由つて観れば明治丁丑前後には荘が猶安藤の手にあつた。其後のなりゆきは、わたくしは聞知しない。
此年天保三年には榛軒二十九歳、妻志保三十三歳、柏軒二十三歳、長十九歳であつた。蘭軒の姉正宗院は六十二歳になつた。
蘭軒歿後の第四年は天保四年である。榛軒の家には事の記すべきものが無い
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