あらう。
 日本政記の校訂者が二人以上あつて、或は同時に、或は相踵《あひつ》いでこれに従事したと云ふことも、考へられぬことは無い。是が疑の二つである。

     その二百九

 関五郎が石川成章ではなからうかとは、わたくしと雖も思つてゐる。石川は此年壬辰五月に頼山陽に従つて彦根に赴いた。そして又これに従つて京都に帰つた。是が山陽の最終の旅行であつた。石川は詩稿の末にかう云つてゐる。「既自彦根還。此稿乞正於山陽先生。会先生罹疾。不正一字而没。」次で山陽の歿した翌年癸巳の元旦にも、石川は水西荘にゐた。「元日水西荘賦呈先師霊前」と云ふ詩がある。是に由つて観れば、頼氏の送葬の時も、焼香の時も、記録上に関五郎の占めてゐる地位は、恰も是れ石川の当に占むべき地位である。
 然らばわたくしが関五郎と石川成章との同異の間に疑を挾むのは、或はスケプシスの過ぎたるものではなからうか。
 さりながら人が「石川成章は一に関氏五郎若くは石川氏関五郎と云つた」と云つて、万事解決せられてゐると以為《おも》ふのは、わたくしの肯《うけが》ひ難い所である。此|裏《うち》に新なる発表を待つて方纔《はうざん》に解決せらるべき何等かの消息が包蔵せられてゐることは、わたくしの固く信ずる所である。わたくしは最後に敢て言つて置く。関五郎が三字の通称でないことだけは、恐くは殆ど動すべからざるものであらうと。
 山陽の歿後京都の頼氏には、三十六歳の里恵、十歳の復《ふく》、八歳の醇《じゆん》、三歳の陽《やう》が遺つてゐた。諸山陽伝には児玉旗山、牧百峰、宮原節庵が江戸にある宗家の当主|聿庵元協《いつあんげんけふ》と、広島にある達堂鉉《たつだうげん》とに与へた書数通、関五郎が復に代つて小野氏に寄せた書数通、里恵が小野氏に寄せた書、里恵が安井氏に寄せた書、梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》が後藤松陰に与へた書等を引いて、当時の状況が記してある。しかしわたくしは里恵の広江夫妻に与へた書が前数者に較べて最重要であると信ずる。それゆゑ煩を厭はずして下《しも》に抄する。
「廿三日八つ比《ごろ》に、何かとあとの所もよくよく申、此方なくなり候ても、何もかはり候事はなく、とんと/\此儘にて、此所|地《ぢ》かりゆゑ、家は此方家ゆゑ、ほそ/″\に取つゞき、二人の子ども、京にて頼二けん立て候やう、夫《それ》をたのしみ(
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