辰秋贈石川藤陰」の詩があつて、題の下《もと》に「石川今称関藤」と註してある。知るべし、藤陰は文化の昔より明治紀元の歳に至るまで石川氏を称してゐたことを。藤陰名は成章、字《あざな》は君達《くんたつ》であつた。
以上の事実は朗廬全集、井上|通泰《みちやす》さんの関鳧翁伝、藤陰舎遺稿を参酌したものである。
遺稿の載《の》する所の詩文を細検するに、維新前の自署は皆「石川成章」若くは「石川章」である。頼山陽に従学した間も亦同じである。一として関藤氏又は関氏と称したものを見ない。
さて藤陰の通称は何であつたか。朗廬の墓誌銘には「称淵蔵、中称和介、後称文兵衛」と云つてある。絶て五郎の称が無い。矧《まして》や関五郎と云ふ三字の称は見えない。
わたくしは関五郎の文字を、未亡人小石氏里恵の広江秋水《ひろえしうすゐ》の妻に与へた書に於て見る。又関五郎と云ふ人の頼復《らいふく》に代つて作つた書の自署に於て見る。わたくしの見る所は此に止まる。
虚心にして思へば、石川成章と関五郎との間には何等の交渉も存在せぬのである。
強ひて二者を媒介するものを求めた後に、わたくしは始て日本政記の校訂と云ふことを見出す。里恵の書に拠るに、頼山陽が歿前に政記の校訂を託したのは関五郎であつた。そして政記は後に当時の石川成章の補訂を経て世に問はれた。関五郎と石川成章との間を媒介するものは只此のみである。
わたくしは無用の辨をなすものでは無い。わたくしは問題なき処に故《ことさら》に問題を構へ成すものでは無い。しかしわたくしは一の証拠を得むことを欲する。関藤藤陰が石川氏を冒してゐた中間に、暫く関氏五郎若くは石川氏関五郎と名告《なの》つたと云ふ一の証拠を得むことを欲する。
人はわたくしの此|言《こと》を聞いて、或は近出の諸山陽伝を以てこれが証に充てようとするであらう。しかし諸伝に「通称淵蔵又関五郎、和介、後文兵衛」と云ひ、「通称を淵蔵、中ごろ和介又は関五郎と云ひ、後文兵衛と改む」と云ふ類は、朗廬の文中適宜の処に「関五郎」の三字を插入したるが如くに見える。若し是が插入であるならば、わたくしは何の拠るところがあつて插入せられたかを知らむことを欲する。若し又単に日本政記の校訂者が関五郎であつた、関藤藤陰が日本政記を補訂して世に問うたと云ふを以て插入せられたとすると、わたくしの問題は未解決の儘に存することとなるで
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