つたのである。
わたくしは柏軒の此年天保三年三月の日記に拠つて、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎、渋江抽斎、柏軒の三人が石経山房を訪うた事を記した。按ずるに此日記は柏軒が慊堂を見て感奮し、其感奮の情が他をして筆を把つて数日間の記を作らしめたのである。それゆゑ自強して息《や》まざらむと欲する意が楮表《ちよへう》に溢れてゐる。下に其数条を続抄する。
三月七日は慊堂を訪うた翌日である。「此日。痘科鍵之会。京先生看観世一代能。不在家。」京先生は池田|京水《けいすゐ》で、其家に痘科鍵《とうくわけん》を講ずる会があつたと見える。
「八日。余甚嗜甘旨。甘旨不去側。今不食甚嗜之甘旨。而磨琢志意。研究経籍。」
「九日。雨。山崎宗運法眼開茶宴。君侯為賓。※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭先生為主接賓。以故休講傷寒論。大兄当直上邸。」多紀※[#「くさかんむり/(匚<(たてぼう+「亞」の中央部分右側))」、第4水準2−86−13]庭《たきさいてい》が傷寒論を講じ、柏軒が聴者《ていしや》中にあつたことが此に由つて知られる。
「十日。大兄講外台。」榛軒は外台秘要《ぐわいたいひえう》を講じた。
「十一日。就浅草狩谷先生之居。写通藝録。」通藝録《つうげいろく》は「※[#「翕+欠」、8巻−17−上−2]程瑤田易疇著、嘉慶八年自刊本」の叢書で、収むる所二十余種に至つてゐる。柏軒の写したのは何の書か。
「十二日。煩悩。不会于池田。」亦痘科鍵を聴くべき日であつたのか。
「十五日。大兄講外台。」
「十六日。晴。大兄欲伴妹拝墓。有事不得行。故小人代行。谷村景※[#「王+民」、第3水準1−87−89]随。岡西徳瑛、成田竜玄嘗有約。先小人至。帰路訪溜池筑前侯邸中伯母正宗院。不在家。」蘭軒の三週年忌である。榛軒が事に阻げられて墓に詣《いた》らなかつたので、柏軒が代つて往つた。わたくしは前《さき》に景※[#「王+民」、第3水準1−87−89]の氏が不詳だと云つたが、此日記に谷村氏としてある。然らば蘭軒門人録の「谷村敬民、狩谷縁者、大須」と同人であらう。
「十七日。祭考。渋江抽斎、森、山田、有馬等来。」
「十八日。如羽根沢慊堂先生之家。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎先生与慊堂先生読李如圭釈宮。渋江全善、信重在側聞之。」宋の李如
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