先生御道中無御替奉大慶候。下拙儀番頭留守いたし候間、御案じ被成まじく候。」
此次に有馬|宗緩《そうくわん》、田村|元長《げんちやう》、海津|安純《あんじゆん》がある。次の景※[#「王+民」、第3水準1−87−89]《けいみん》全庵は其氏を詳《つまびらか》にしない。後の榛軒の書にも、「景※[#「王+民」、第3水準1−87−89]、善庵は勉学するや」と云つてある。
次に石川|良琢《りやうたく》が書いた。「良琢。御道中御きげんよく。朝夕さむく候。」柏軒の親友で、坦率な人であつたと見える。
次に村片古※[#「山+壽」、第4水準2−8−71]《むらかたこたう》が書いた。「相覧《あうみ》敬白。御道中御賢勝に御乗輿被成、珍重奉存候。扨御宿元日々早朝不相変御見舞申上候処、御番頭様朝起感心仕候。一昨日雑司谷へ参申候。」此|下《しも》は冊子の綴目に隠れて読むことが出来なかつた。
「番頭」玄瑞は寄寓して留守をしたものと見える。雑司谷は何の謂《いひ》なるを知らない。「賢勝」は「健勝」であらう。按ずるに画師村片は日ごとに見舞に来たので、偶《たま/\》輪講の時に来合せてゐて書いたのであらう。村片は傷寒論を講ずべき人ではない。
その百九十七
此年天保元年十月二十一日は、福山へ立つた榛軒が始て留守に寄する書を作つた日である。宇津の山|輿中《よちゆう》にあつて筆を把ると云つてある。
榛軒は最も妻《さい》勇《ゆう》のために心を労してゐたらしく、柏軒に嘱して「勇の挙止に気を附けよ」と云つてゐる。又「勇をして叔母をいたはらしめよ」とも云つてゐる。「叔母」は蘭軒の妻《つま》益《ます》の姉で、飯田休庵の女《ぢよ》、杏庵の妻である。此人は榛軒の家に寄寓してゐたらしい。蘭軒の姉|正宗院《しやうそうゐん》の事は、只「溜池に宜く伝へよ」と云つてある。
二十二日より二十三日に至る間に作つた榛軒の書には、「お長の不快いかが」と問うてある。妹長が病んでゐたと見える。
二十四日の榛軒の書は鳴海駅丁字屋吉蔵の家に投じた夜に作つたものである。江戸より伴ひ来つた僕弥助に暇《いとま》を遣つて帰省せしめたことが書いてある。又「※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の風邪いかが」と云つてある。妹長と云ひ、狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎と云ひ、皆榛軒が江戸を発する前に病んでゐたのであらう
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