で棠助《たうすけ》と称し、今祖父|信階《のぶしな》の称を襲《つ》いで長安となつたのであらう。
 蘭軒の室《しつ》飯田氏|益《ます》は夫に先《さきだ》つて歿したので、蘭軒歿後には只側室佐藤氏さよが残つただけである。榛軒は幾《いくばく》もあらぬに、これに貲《し》を与へて人に嫁せしめた。
 是に於て榛軒の新家庭には妻|勇《ゆう》、弟柏軒、妹|長《ちやう》の三人があつて、主人を併せて四人をなしてゐた筈である。勇の生んだ女《むすめ》れんは前年戊子十二月四日に死に、今年己丑に入つてより、二月二日に榛軒と柏軒との間の同胞常三郎、五日に此三子の母飯田氏益、三月十七日に父蘭軒が死んだのである。
 蘭軒の門人は多くは留まつて榛軒の教を受くることゝなつた。門人等は復《また》「若先生」と呼ばずして「先生」と呼ぶこととなつたのである。
 蘭軒の遺弟子《ゐていし》は所謂又分家の良子《よしこ》刀自所蔵の門人録に八十一人、所謂分家の徳《めぐむ》さん所著《しよちよ》の歴世略伝に二十一人が載せてあつて、二書には互に出入があり、氏名の疑似のために人物の同異を辨ずるに苦むものもある。今重複を除いて算するに、約八十二三人となる。しかし蘭軒自筆の勤向覚書に僅に門人七人の氏名が見えてゐて、その門人録及歴世略伝に載するもの四人、門人録に載せて、歴世略伝に載せざるもの二人、二書並に載せざるもの一人である。是に由つて観れば、門人録も歴世略伝も、猶脱漏あることを免れぬものと見える。今三書を湊合して、新に一の門人録を作ることは容易であるが、読者の厭悪《えんを》を奈何《いかん》ともし難い。
 わたくしは此に第《しばら》く当時の所謂「蘭門の五哲」を挙げる。即ち渋江抽斎、森枳園、岡西玄亭、清川玄道、山田|椿庭《ちんてい》である。蘭軒の歿後に、榛軒は抽斎、玄亭、椿庭の詩箋、枳園の便面《べんめん》、玄道の短冊を一幅に装《よそほ》ひ成したことがある。此幅は近年に至るまで徳さんの所にあつたが、今其所在を知らない。
 それはとにかく、榛軒の世となつた後も、医を学ぶものが伊沢分家の門に輻湊したことは、当時の俗謡に徴して知ることが出来る。わたくしは此に其|辞《ことば》の卑俚《ひり》を嫌はずして、榛軒の女《ぢよ》曾能子《そのこ》刀自の記憶する所のとつちりとん一|※[#「門<癸」、第3水準1−93−53]《き》を録する。「医者になるならどこより
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