その百九十
わたくしは上《かみ》に伊沢分家の口碑の伝ふる所に係る蘭軒歿時の事二条を挙げた。此より蘭軒平生の事にして口碑に存ずるものに言及しようとおもふ。
蘭軒は近視であつたさうである。そして蘭軒が一目《ひとつめ》小僧に遭つたと云ふ伝説がこれに伴つてゐる。事は未だ蹇《あしなへ》にならぬ前にあるから、文化癸酉三十七歳より前でなくてはならない。
伝説に曰く。或日蘭軒は一病者を往診して、日が暮れてから還つた。雨の夜であつた。若党が提灯を手にして先に立つて行つた。蒟蒻閻魔《こんにやくえんま》の堂に近い某街《ぼうかい》を過ぐる時、※[#「竹かんむり/嫋のつくり」、7巻−371−上−5]笠《たけのかはがさ》を被つた童子《わらべ》が一人|背後《うしろ》から走つて来て、蘭軒と並んで歩いた。
「小父さん。こはくはないかい。」遽《にはか》に童子が問うた。
蘭軒は答へなかつた。
童子は問を反覆した。
若党が童子を顧みて、一声叫んで傘と提灯とを投げ出した。
「どうしたのだ」と蘭軒が問うた。
「今お側にゐた小僧は額の正中《まんなか》に大い目が一つしかありませんでした。ああ、気味が悪い。まだそこらにゐはしませんか。」若党の声は顫えてゐた。
「ばかな事を言ふな。一つ目小僧なんぞと云ふものがあるものか。お前が見損《みそこな》つたのだ。」
「いゝえ、河童が化けて出たのです。あの閻魔堂の前の川には河童がゐます。」
蘭軒は高笑《たかわらひ》をした。「化物話を聞いてゐるうちに、目が闇に慣れて来た。思の外暗くは無い。まあ、提灯が燃えないで好かつた。早く提灯と傘とを拾つて一しよに来い。」
若党は四辺《あたり》を見廻したが、見える限の処には人影が無かつた。童子もゐなかつた。
以上が伝説である。伝説には解説が附いてゐる。河童が一つ目小僧に化けて出て蘭軒に戯れたが、伊沢氏には近視の遺伝があつて、蘭軒は童子の面《おもて》を見ることを得なかつた。伊沢氏の近視は瞳孔の太《はなは》だ小いためだと云ふのである。
瞳孔の平均径は人毎に異つてゐる。しかし其広狭のために瞻視《せんし》を害することを聞かない。虹彩の瞻視を害することは、後天の変形には或は有るが、先天には恐くは有るまい。
近視が往々遺伝することは固よりである。しかし是は虹彩や脈絡膜の病では無い。伊沢氏に近視の遺伝があつたと云ふこと、蘭軒が
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