荀子故及之]の註がある。題に帰省と云ひ、詩に第六句があるを見れば、金子は故郷に親があつた。
 三月の詩会は十九日に千駄木村|植緑園《しよくりよくゑん》に催された。宿題は「題嵐山図」、席上題は「山村春晩」で、蘭軒は七絶各二を作つた。詩は略する。
 植緑園の詩会の次に、集は幕府医官岡某の宴を載せてゐる。引に云く。「清明前一日。岡医官台北別墅迎飲。余語医官命信恬陪侍。臥病不能従。岡君有詩。恭次芳韻奉呈。」岡某は上野の北に別荘があつて、宴はそこに開かれた。蘭軒は余語古庵の紹介に由つて招かれたが、病を以て辞した。そして主人の詩に次韻して贈つた。詩は五律である。今省く。
 武鑑を検するに、当時岡氏は父子共に西丸に勤めてゐた。父は「岡了節法眼、奥御医師三百五十石、本郷大根畑」、子は「岡了允法眼、父了節」と記してある。余語古庵の名は寄合医師中に見えてゐる。
 四月六日には蘭軒が杜鵑花《つつじ》を百々桜顛《とゞあうてん》の家に賞した。同遊者は榛軒、柏軒、山室士彦《やまむろしげん》、石坂|白卿《はくけい》であつた。百々桜顛、名は篤《とく》、字《あざな》は敬甫《けいほ》、後年|屡《しば/″\》榛軒、門田《もんでん》朴斎等と往来した形迹がある。海内偉帖《かいないゐてふ》に「福山藩中」と註してある。杜鵑花は其父の栽ゑた木であつた。山室は茶山集の詩に、「病中七夕山室子彦、河村士郁来」の七律があつて、其第四に「偶有台中二妙尋」と云つてある。若し士彦と子彦とを同じだとすると、此人は四年前に備後にゐたこととなる。石坂は未だ考へない。「四月六日、百々桜顛宅集、園有杜鵑花数株、其先人所栽、与山室士彦、石坂白卿及厚重二児賦。深園雨過緑陰重。更見杜鵑花稍※[#「禾+農」、第4水準2−83−8]。都是君家遺愛樹。灌培不改旧時容。」
 十三日に蘭軒は詩会を横田雪耕園《よこたせつかうゑん》に催した。宿題は「題江島石壁」席上題は「卯飲」で、蘭軒の作は彼に七絶一、此に三がある。「卯飲」の一に「卯飲解酲有何物、売来蛤蜊過門渓」の句があつて、「売蛤漢自行徳浦来、毎在日未出時」と註してある。売蛤者《ばいかふしや》の行徳《ぎやうとく》より来ることは、今も猶昔のごとくなりや否や。

     その百八十五

 此年文政十一年五月の詩会は酌源堂《しやくげんだう》に於て催された。宿題は「採薬」で、蘭軒は「倣薬名詩体」の五律を作つた
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