さんに質《たゞ》した。そして久利の生れたのが十年の後なることを知つた。丁亥に生れた女子は名をれんと云つたさうである。然らば榛軒の女は長をれんと云ひ、次を柏と云ひ、季を久利と云つて、独り柏が人と成つたのである。
 十二月には元槧《げんざん》千|金翼方《きんよくはう》の影写が功を竣《をは》つた。是も亦次年元日の詩の註に見えてゐる。原本は多紀氏|聿脩堂《いつしうだう》の蔵する所である。蘭軒が其抄本に跋したのは十二月三日である。末に「文政十年※[#「虫+昔」、第4水準2−87−55]月三日、呵筆記於三養堂、時大雪始晴」と書してある。
 千金翼方は千金方と同じく孫思※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《そんしばく》の撰と称せられてゐる。千金方には傷寒の治法を詳にしなかつたので、翼方を作つたと云ふのである。「孫氏撰千金方。其中風瘡※[#「癰−隹」、7巻−354−上−8]。可謂精至。而傷寒一門。(中略。)疑未得其詳矣。又著千金翼方。辨論方法。(中略。)為十六篇。分上下両巻。亦一時之新意。此於千金為輔翼之深者也。」
 此書の元槧本は所謂梅渓書院本である。「大徳丁未、梅渓書院梓行」と云つてある。丁未は元の世宗の大徳十一年である。初に孫奇《そんき》、林億《りんおく》等の校正表を載せ、末に後序を載せてある。皆後の刊本の刪除《さんぢよ》する所である。
 蘭軒がこれを影抄し畢《をは》つた時、躋寿館《せいじゆくわん》に又これを影刻する議が起つた。「近頃医官諸君。有醵金影刻此本之挙。正学之余恵被後代。可謂其徳浹渥。抑崇文盛化之所致。豈不欽仰邪。其如此則爾後善本之有刻。日多一日。余蔵多抄本。恐子孫以刻本易得。軽視家蔵。因仔細記之。」
 蘭軒は既に元槧千金方を有してゐたので、其影抄翼方に同一装釘を施して愛蔵した。「余蔵元板前方。今装釘一依其式様。以充聯璧。」
 当時世間に行はれてゐた千金翼方は、乾隆癸未|重梓本《ちようしぼん》、王宇泰本《わううたいぼん》等である。

     その百八十一

 蘭軒は此年文政十年十二月三日に影抄元板千金翼方に跋して、偶《たま/\》書の銓択《せんたく》に論及した。其|言《こと》頗《すこぶる》傾聴するに堪へたるものがある。
 蘭軒の曰く。「蔵書宜務銓択。始為有識見也。而銓択有二派。好逸書。愛奇文。世所絶少者。雖兎園稗史。必捜得之。是好事蔵家所銓択也。其
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