ビの「かきざき」は底本では「かきさき」]、僧六|如《によ》、第三は橋本|※[#「木/(虫+虫)」、7巻−352−下−5]庵《とあん》、第四は倉成竜渚《くらなりりゆうしよ》である。「此等常在胸。其状更宛然。瑣事委遺忘。忽亦現目前。」
 蘭軒との交《まじはり》が茶山のために主要なる記念の一であつたことは、此に由つて知られる。

     その百八十

 わたくしは蘭軒の一生を叙して編日の記事をなさむことを努め、此年文政十年八月十三日に※[#「二点しんにょう+台」、第3水準1−92−53]《いた》つて、その師友として待つた所の菅茶山の死に撞著した。茶山集の最尾に「臨終訣妹姪」の詩がある。「身殲固信百無知。那有浮生一念遺。目下除非存妹姪。奈何歓笑永参差。」わたくしは始て読んで瞿然《くぜん》とした。前半は哲学者の口吻と謂はむよりは、寧《むしろ》万有学者の口吻と謂ふべきである。想ふに平生筆を行《や》ることの極めて自在なるより、期せずして道《い》ひ得たのであらう。妹姪《まいてつ》は未だその誰々たるかを知らない。しかし井上氏|敬《きやう》が其中にあつたことは明である。
 頼山陽は茶山の病|革《すみやか》なるを聞いて、京都より馳せ至つた。しかし葬儀にだに会ふことを得なかつた。「聞病趨千里。中途得訃音。不能同執※[#「糸+弗」、7巻−353−上−9]。顧悔晩揚鞭。」
 茶山の後は姪孫《てつそん》菅《くわん》三|惟繩《ゐじよう》が継いだ。関藤々陰《せきとう/\いん》の「菅自牧斎先生墓碣銘」に「茶山先生以儒顕、本藩賜爵禄優待之、比歿、樗平君子孫独先生(自牧斎惟繩)在焉、以姪孫承其後、主郷校、藩給廩米五口、事在文政丁亥」と云つてある。
 九月十三日には上野仙駕亭の詩会が催された。「秋水網舫」、「秋蝶」は其宿題、「秋帆晴景」は其席上課題であつた。網舫《まうばう》の詩は七絶、蝶と晴景《せいけい》とは七律である。別に秋の詩の間に「詠史」七絶二がある。一は仁徳帝、一は漢の張良である。
 冬に入つて十一月に榛軒が女子を挙げたことは、次年戊子元日の詩の註に見えてゐる。歴世略伝を検するに榛軒の子は柏《かえ》、久利《くり》の二女を載するのみである。柏の生れたのは八年の後である。久利の生年は記載して無い。丁亥に生れた女子はその何人《なにひと》なるを詳《つまびらか》にしない。
 わたくしは特にこれを徳《めぐむ》
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