価。今夕将増金一千。」
わたくしは此月二十二日に蘭軒が書を茶山に寄せたことを知つてゐる。しかし其書は今存してゐない。存してゐるものは茶山のこれに答へた書の断片である。茶山のこれに答へたのは四月中の事であらう。此断片も亦饗庭氏の蔵儲に係る。「梅児冢《ばいじちよう》あたりへ之散行、さて/\羨しく候。ことに弱冠前後の俊髦《しゆんばう》を携たるをや。私は児なし。養子もとかく相応せず。才子過て傲慢、こまり申候。狂詩のごとしと被仰下候へども、中々おもしろく候。花月何論価高下、只※[#「貝+(やね/示)」、7巻−348−上−15]美酒斗十千と次かけ候へ共、上《かみ》の方出来かね候。かくうちには出来可申か。高滝子《たかたきし》と金輪《こんりん》へ参候由、総介とは誰か。唯介にてはなきか。梧堂と一つになり候半《さふらはむ》と存候。桜花※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]《あうくわせき》は性を存《そんじ》、色もあしからず候。わたくしがすれば花はかれて色あしくなり候。伝授心法はなきか。あらば御伝可被下候。嫁御御祝儀に有合候宮島楊枝進申候。薄物に候。これは乗韋と可被思召候。右は空海上人忌日|※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日《ゆうじつ》之書之御返事也。前二句は花堤夜色淡生烟。政是江波月弄妍などか。」
僧空海は承和二年三月二十一日に寂した。其忌日は三月二十一日である。※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日の「※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]」字の草体は頗読み難かつた。偶《たま/\》今関|天彭《てんはう》さんが来て商書の「高宗※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日」であらうと云つた。茶山は祭の明日を謂つたものであらう。そこでわたくしは二十二日と推定した。茶山は※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日の旁《かたはら》に線を加へて「八島戦之後四日也」と註してゐる。しかし屋島の戦は二月であつた。然らば壇浦の戦は奈何《いかに》と云ふに、これは又三月二十二日より遅れてゐるやうである。恐くは茶山の違算であらう。蘭軒の書が丁亥の三月二十二日のものであつたことは、丁亥三月既望の詩を寄示したるに由つて知ることが出来る。
その百七十八
「空海上人忌日※[#「月+彡」、第4水準2−85−17]日」の蘭軒の書牘が、此年文政十年の三月二十二日に作られたことは、そ
前へ
次へ
全567ページ中283ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング