絨。」註に「鎖幅絨西洋所齎、称我魯扶古連者」と云つてある。蘭語グロフ、グレンは粗駝毛絨《そだまうじゆう》の義ださうである。
その百七十二
備後では此年文政八年の暮に、菅茶山が「歳杪雑詩」の五律三首を作り、又除夜に始て雪がふつたので「除夜雪」の五律を作つた。「今年未逢雪、此日始模糊。」
菅氏には此年特に記すべき事が無い。強て求むれば十月既望頼山陽の訪問である。即ち事は頼氏に連《つらな》つてゐる。頼氏では三月に山陽の次男辰蔵が六歳にして夭した。「幻華一現暫娯目、造物戯人何獪哉。」しかし五月に至つて四男|三木《みき》八が生れた。後の三樹三郎醇《みきさぶらうじゆん》である。山陽は母|梅※[#「風にょう+思」、第4水準2−92−36]《ばいし》に「辰のかはり」が出来たと報じた。山陽の子は三男|復《ふく》と此醇とが人と成つた。九月には竹原にある叔父春風が歿した。辰の痘を病んで死する時、京都に来合せてゐたのが、叔姪《しゆくてつ》の別であつた。山陽は展墓のために竹原に往つて、帰途に廉塾を過《よぎ》つたのである。茶山は「南阮有喪雖可悼、北堂無恙亦堪歌」と云ひ、山陽は「吾曹更誰望、父執有君存」と云つてゐる。
此年蘭軒は四十九歳であつた。家族は妻益四十三、子女榛軒二十二、柏軒十六、長十二であつた。
文政九年の元日は江戸が雪の日であつた。蘭軒の詩に「丙戌元日作、此日雪」と題してある。「臘酒醺然猶未除。陽春白雪愛吾廬。銀鈴竹裏鏘鏘響。玉杖柳辺耀耀舒。風字硯奇貧亦買。羊毫筆美拙能書。正元尤喜逢豊兆。吟種今年定有余。」頷聯に「此日雪景頗奇、銀鈴玉杖並実際所見、非倣銀海玉楼之顰」の註、頸聯に「二物客歳所得、此日始試」の註がある。神辺は此日|晴暄《せいけん》で雪が融《と》けかかつてゐた。「檐角有声晴已滴。池心不凍午成漣。」是が茶山の詩の三四である。其五六は「十千美酒酬三朔、八秩衰骸少一年」である。
茶山が元日の詩に年歯を点出した如くに、九日の蘭軒の作に「日々只宜開口笑、生年五十未知非」の句がある。例の「豆日草堂集」の七絶の転結である。
二月十三日に蘭軒は岸本|由豆流《ゆづる》の向島の別荘に招かれた。其日は薄曇の日であつた。三絶句の其一に「不妨鳩語頻呼雨、恰是軽陰宜看梅」の句がある。蘭軒は途中百花園に立ち寄つて梅を看た。「白玉有瑕真可惜、俗人題句繋枝頭。」紙片を枝に繋ぐ習が当
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