》の弟にせられた。此男子が名は重隣《しげちか》、字《あざな》は堯佐《げうすけ》、号は朴斎、小字《せうじ》は小三郎又正三郎である。長ずるに及んで字を以て行はれた。朴斎は幼にして茶山の門に入り、既にして其養子にせられた。浜野氏所蔵の「朴斎詩鈔初編」に拠るに、朴斎は文政庚辰より丁亥に至る八年間、菅氏の養子になつてゐた。茶山は恐らくは朴斎をして菅三が長ずるまでの中継たらしめむとしたのであらう。これをして頼山陽、北条霞亭の後を襲《つ》がしめむとしたのであらう。朴斎は寛政九年二月十八日生だから、此年二十九歳になつてゐた筈である。わたくしは朴斎が妻と倶に茶山の許にゐたものと解する。妻は備中国|成羽《なりは》の医岡伯庵の女《ぢよ》で、名を静と云つたと、田辺|晋子《しんし》さんが語つた。
 第三の書中の人物は「津軽翁」即狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎である。茶山は蘭軒をして又※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎に長崎の遊を勧めしめようとした。茶山の言《こと》は長崎にある新旧の清客に及び、又|舌人《ぜつじん》に及んだ。清客には第四江、第五陸、第六朱、第七沈の四人の名が出でてゐる。其名字等は津田繁二さんを煩はして、後に補入しようとおもふ。当時江戸にめされてゐた訳司中の学者はその何人《なんひと》なるを知らない。「長崎年表」にも此事は載せてない。
 書中の他の人物は、茶山が蘭軒に「致声」を托したに過ぎない。第八市野迷庵、第九余語古庵は斥《さ》す所が明白である。第十服都某は※[#「くさかんむり/姦」、7巻−337−下−5]斎集の栗陰《りついん》か。第十一松崎某は茶山が其詩を賞してゐる。恐くは慊堂《かうだう》であらう。第十二山名某は茶山がその文を善くすることを言つてゐる。此人は未詳である。
 十二月二十三日には蘭軒が医術申合会頭たる故を以て賞を受けた。勤向覚書の文は例に依つて省《はぶ》く。
 此年冬の蘭軒の詩は、既に十月十三日詩会の宿題二、席上一、十一月十六日の宿題一、同日作の懐印南一、以上五首あることを言つた。剰《あま》す所は「冬日過北堤」、「歳晩即事」の二首のみである。
 歳晩即事は蘭軒の履歴に略すべからざる詩である。それは阿部|正精《まさきよ》が蘭軒にゴロフクレンの服を与へた事を紀するものだからである。「今歳寒威殊栗烈。病夫況復及衰躬、抃忻恩賜防冬服。奇暖賽春鎖幅
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