じ》であつた。そして別号を麦雨《ばくう》と云つた。これは蘭軒の子で所謂《いはゆる》「又分家」の祖となつた柏軒の備忘録に見えてゐる。高敏の妻、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の生母佐藤氏は武蔵国葛飾郡小松川村の医師の女《むすめ》であつた。これも亦同じ備忘録に見えてゐる。
 高敏の家業は、曾孫三|市《いち》さんの聞いてゐる所に従へば、古著屋であつたと云ふ。しかし伊沢宗家の伝ふる所を以てすれば小さい書肆であつたと云ふ。これは両説皆|是《ぜ》であるかも知れない。古衣《ふるぎ》を売つたこともあり、書籍、事によつたら古本を売つたこともあるかも知れない。わたくしは高敏の事跡を知らむがために、曾て浅草源空寺に往つて、高橋氏の諸墓を歴訪した。手許には当時の記録があるが、姑《しばら》く書かずに置く。三市さんが今猶探窮して已まぬからである。
 ※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の保古に養はれたのは、女婿として養はれたのである。三市さんは※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の妻は保古の三女であつたと聞いてゐる。柏軒の備忘録に此女の法号が蓮法院と記してある。
 此年二月二十二日に御園氏|淳《じゆん》が山陽に嫁した。後一年ならずして離別せられた不幸なる妻である。十二月七日の春水の日記「久児夜帰太遅、戒禁足」の文が、家庭の頼山陽に引いてある。山陽が後|真《まこと》に屏禁《へいきん》せられる一年前の事である。
 此年蘭軒は二十三歳、父信階は五十六歳であつた。

     その二十

 寛政十二年は信階父子の家にダアトを詳《つまびらか》にすべき事の無かつた年である。此年に山陽は屏禁せられた。わたくしは蘭軒を伝ふるに当つて、時に山陽を一顧せざることを得ない。現に伊沢氏の子孫も毎《つね》に曾《かつ》て山陽を舎《やど》したことを語り出でて、古い記念を喚び覚してゐる。譬へば逆旅《げきりよ》の主人が過客中の貴人を数ふるが如くである。これは晦《かく》れたる蘭軒の裔《すゑ》が顕れたる山陽に対する当然の情であらう。
 これに似て非なるは、わたくしが渋江抽斎のために長文を書いたのを見て、無用の人を伝したと云ひ、これを老人が骨董を掘り出すに比した学者である。此《かく》の如き人は蘭軒伝を見ても、只山陽茶山の側面観をのみ其中に求むるであらう。わたくしは敢て成心としてこれを斥《しりぞ》ける。わた
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