とに寄示せむがために詩を作つたのである。
 八月の初に備後は淫雨であつた。「比来頻苦雨、不望半秋晴。」十四日にも雨が劇《はげ》しかつたが、午後に至つて忽ち晴れた。「昨朝勢逾猛。半日屋建※[#「令+瓦」、7巻−329−下−1]。秋鳩忽数語。返照射前楹。」其夜は北風が雲を駆つて奔《はし》らしめ、明月が雲の絶間に見えた。「昨夜風自北。月泝走雲行。時当雲断処。光彩一倍生。」かくて十五夜に至ると、天は全く晴れて、些《ちと》の翳《くもり》の月の面輪を掠むるものだに無かつたので、茶山は夜もすがら池を繞《めぐ》つて月を翫《もてあそ》んだ。「今夜無繊翳。不覩星漢横。興来繞池歩。月在水心停。」
 茶山は花亭月堂等が江戸にあつて同じ月を賞する状《さま》を思ひ遣つた。「不知東関外。得否此晶瑩。携酒誰家楼。泊舟何処汀。如見歓笑態。宛聞諷詠声。」そして病後の波響を憫んだ。「近伝張公子。臥病坐環屏。新起雖怯冷。或能倚窓櫺。憶昔椋湖泛。緇素会同盟。如今独君在。余子尽墳塋。孤尊斟砕璧。能不動旧情。」
 椋湖《りやうこ》は巨椋《おほくら》の池であらう。茶山が波響と小倉附近に遊んだのは、恐くは二人が始て京都に於て交《まじはり》を訂した寛政初年の秋であつただらう。同じく舟を椋湖に泛べた緇素《しそ》とは誰々か。わたくしは茶山集の初編を披《ひら》いて検した。寛政六年甲寅の中秋に、七絶三首があつて、引に「中秋与六如上人、蠣崎公子、伴蒿蹊、橘恵風、大原雲卿、同泛舟椋湖」と云つてある。前《さき》にわたくしは壬午「憶昔三章」の詩中「十一年後忽此歓」の句より推して、波響茶山の交を寛政五年に始まるとなしたが、実は六年であつた。甲子の再会は十一年後ではなくて、実は十年後であつた。
 同遊六人の僧俗中先づ死んだのは六如《りくによ》である。享和元年三月十日に寂したから、二十四年前である。次は所謂|橘恵風《きつけいふう》である。宮川|春暉《しゆんき》、字《あざな》は恵風、橘姓、南谿と号した。歿日文化二年四月十日は二十年前である。次は文化三年七月二十六日に歿した伴蒿蹊《ばんかうけい》で、十九年前である。次は同七年五月十八日に歿した大原|呑響《どんきやう》で、十五年前である。「如今独君在、余子尽墳塋。」
 以上記し畢つた後、寛政甲寅の遊には猶二人の同行者があつたことを知り得た。即ち米子虎《べいしこ》、松孟執《しようまうしふ》である。
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