て妻孥を迎へたのである。其明証は楝軒《れんけん》詩集にある。
浅川楝軒は初め霞亭が召されて東に之《ゆ》く時、上《かみ》に引いた七律を作つて其行を送つた。尋で秋に入つてから、詩を霞亭に寄せた。即ち「奉寄北条先生」の七律で、其第二句に「秋気満庭虫乱鳴」と云つてある。霞亭が妻孥を迎へに備後に帰つた日、細《こまか》に言へば帰り著いた日は秋に入つた後でなくてはならない。
さて霞亭が再び備後を発するに当つて、楝軒は詩二篇を賦した。一は七古で、「奉送霞亭北条先生携家赴東都邸」と題し、一は七絶で、「五日木犀舎席上別霞亭先生」と題してある。
霞亭の自ら備後に往つて妻孥を迎へたことは、此二篇の存在が既にこれを証してゐる。しかし啻《たゞ》にそれのみではない。七古の中に「来携妻孥乍復東」の句がある。又次の年壬午の「春日書事、次霞亭先生丸山雑題韻五首」の七律第二首が「憶昔両回馬首東」を以て起《おこ》つてゐる。霞亭|親迎《しんげい》の証拠は十分だと謂つて好からう。
わたくしは進んで江戸引越の月日を明《あきらか》にしたい。由緒書に「八月九日引越」といふのは、何の日であらうか。楝軒の詩題に「五日木犀舎席上別霞亭先生」と云ふのは、何月五日であらうか。
今仮に八月九日を以て、霞亭一家の江戸に著した日だとすると、木犀舎|祖筵《そえん》の五日は辛巳七月五日でなくてはならない。そして彼楝軒が霞亭に寄せた「秋気満庭虫乱鳴」の詩は、七月朔より五日に至る間に成つて発送せられたものでなくてはならない。木犀舎は山岡氏の家で、今の阿部伯の家令岡田|吉顕《よしあき》さんの姻家ださうである。
只此に一の疑問がある。それは上《かみ》の「来携妻孥乍復東」の詩の題下に、「十月五日」の細註が下《くだ》してあることである。しかし上の仮定が誤らぬとすると、十月は霞亭の備後を去つた後となる。福田氏の抄本を見るに、「十月」の傍《かたはら》に「原書のまま」と註してある。按ずるに福田氏も亦此「十」字に疑を挾《さしはさ》んでゐるらしい。
記《き》して此に至つた時、わたくしは的矢の北条氏所蔵の霞亭尺牘一|篋《けふ》を借ることを得た。思ふにわたくしは今よりこれを検して、他日幾多の訂正をしなくてはなるまい。わたくしは此に先づ一の大いなる錯誤を匡《たゞ》して置く。それは偶《たま/\》篋中より抽《ぬ》き出した一通が、わたくしをして嚢里《なう
前へ
次へ
全567ページ中260ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング