候様、同月十三日三十人扶持被下置、大目附格御儒者被召出、同日奥詰出府之所在番」と云つてある。山陽の「尋特召之東邸、給三十口、准大監察」と書したのが是である。
按ずるに四月十三日は藩の東役を命じた日であらう。そして六月七日の「暫御差留」が入府直後の処置ではなからうか。然らばわたくしの推定は大過は無かつたと云ふものの、猶詳なることを得なかつた。霞亭の入府は恐くは六月の初であつただらう。夏初ではなくて季夏《きか》の初であつただらう。
霞亭は夏初には猶備後にゐたらしい。わたくしは楝軒《れんけん》詩集に拠つて此の如くに断ずる。楝軒は浅川氏、名は勝周《しようしう》、字《あざな》は士※[#「木+貞」、第3水準1−85−88]《してい》、通称は登治右衛門《とぢゑもん》、茶山の集に累見せる「浅川」である。
楝軒詩集は五巻ある。其|巻《けんの》四辛巳の詩中に、「送霞亭北条先生応召赴東都」の七律がある。そして「特招元有光輝在、莫為啼鵑思故園」は其七八である。此詩の前には水晶花《すゐしやうくわ》の詩がある。水晶花は卯花《うのはな》であらう。卯花と云ひ、郭公《ほとゝぎす》と云ふは、皆夏の節物《せつぶつ》である。霞亭は夏に入つて猶福山にゐたのである。
しかし此差は猶小い。わたくしは別に大いに誤つたことがある。それは霞亭が東に召された時初より孥《ど》を将《ひきゐ》て徙《うつ》つたとなした事である。実は霞亭は初め単身入府し、尋で一旦帰藩し、更に孥を将て東徙した。此事は夙《はや》く浜野氏が親くわたくしに語つた。若しわたくしが精《くは》しく山陽の文を読んだなら、此の如き誤をばなさなかつたであらう。山陽は「尋特召之東邸、給三十口、准大監察、将孥東徙、居丸山邸舎」と書してゐる。東に召すと東に徙るとは分明に二|截《せつ》をなしてゐる。わたくしの読むことが精しくなかつたと謂はなくてはならない。
由緒書に徴するに、「同年(文政四年辛巳)八月九日江戸引越」と云つてある。
その百六十二
北条霞亭は辛巳の歳に東に召された時、初は単身入府し、後更に孥《ど》を将《ひきゐ》て徙《うつ》つた。前の江戸行は四月十三日に命ぜられて、六月の初に江戸に著したらしい。後の江戸行は由緒書に「八月九日江戸引越」と記してある。
所謂江戸引越は霞亭が江戸に留つてゐて、妻孥を備後より迎へ取つたのでなく、霞亭は自ら往い
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