である。霞亭に「任有亭漫詠十五首」があり、又「題任有亭」「題似雲師肖像」の作がある。「聯結得一庵。斗大劣容躬。(中略。)嵐山当戸※[#「片+(戸の旧字+甫)」、第3水準1−87−69]。堰水遶庭叢。(中略。)心跡何所似。人称今西公。(中略。)吾夙慕高概。隠迹行将同。何彼名利客。区々在樊籠。斯人今不見。目送冥々鴻。」これは「題任有亭」の五古中より意に任せて摘み来つた数句である。「人称今西公」とは当時の似雲を以て古《いにしへ》の西行に比したのである。
任有亭にゐた間の霞亭の境遇には、特に記すべき事が少い。九月上旬には少しく疾《や》むだ。「九日有登七老山之期、臥病不果、口占。望山不得登。対酒不思嘗。枕辺如欠菊。何以過重陽。」十九日には亡弟|彦《げん》の法要を営んだ。此時僧月江が「薦北条子彦君霊」の詩を作つた。わたくしは此詩の一句に由つて三兄弟の長幼順序を知ることを得た。三人の最長者の霞亭なることは勿論であるが、次が夭折した彦、又次が惟長《ゐちやう》であつた。月江は「阿兄阿弟我相知」と云つてゐる。死者の阿兄が霞亭で、其阿弟が惟長だと云ふことになるのである。わたくしは系譜を見ることを須《もち》ゐずしてこれを知ることを得た。十月四日には入江若水《いりえじやくすゐ》の墓を弔した。若水、名は兼通《けんつう》、字《あざな》は子徹《してつ》である。嘗て僧似雲が任有亭にゐた時、若水は櫟谷《いちだに》にゐた。「跡つけてとはぬも深き心とは、雪に人待つ人の知るらむ」は、雪の日に似雲の若水に贈つた歌である。此日は享保十四年に若水の歿した忌辰であつた。
その百四十八
北条霞亭は辛未十月三日に任有亭《にんいうてい》から梅陽軒《ばいやうけん》に移つた。「一年為客四移蹤。来去自由無物従。」此より嵯峨生活の後期に入るのである。林崎より竹里《ちくり》へ、竹里より任有亭へ、任有亭より梅陽軒へ、以上三移である。四移と云ふは、竹里と任有亭との間に市中に住んだ二旬余があるからであらう。
梅陽軒は空僧院《くうそうゐん》である。「幽寺無僧住。随縁暫寄身。」院は竹林《ちくりん》の中にある。「蘿纏留半壁。竹邃絶比隣。」そして門前をば大井川の支流|芹川《せりかは》が流れ過ぎ、水を隔てて嵐山の櫟谷《いちだに》を望み見る。「櫟谷寒燈※[#「火+(日/立)」、第3水準1−87−55]々。芹渠暗水潺々。」前の四句
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