聯玉曾有訪予幽篁書屋之約。田伯養、孫孟綽従其行。適河良佐、池希白役越後。抂程亦偕聯玉輩。一斉入京。」霞亭が此日の詩に、「壮遊人五傑、快意酒千鍾」の句がある。所謂五傑中、韓凹巷、河敬軒《かけいけん》の二人を除いて、他の三人はわたくしのためには未知の人である。只田の名は光和《くわうくわ》、孫の名は公裕《こうゆう》で、孫は自ら凹巷の内姪《ないてつ》と称してゐる。
その百四十七
北条霞亭の竹里《ちくり》の家に宿つた韓凹巷《かんあふこう》等五人の客は、翌日辛未三月二十九日に、主人と共に嵐山に遊んだ。樵歌《せうか》に「春尽与諸君遊嵐峡」の詩がある。辛未の三月は小であつたので、二十九日が春尽《しゆんじん》になつてゐた。
四月三日に主客は嵯峨を出でて天橋立に遊んだ。五客の中|河良佐《かりやうさ》と池希白《ちきはく》とは、途上|角鹿津《つぬがのつ》に於て別れ去つた。霞亭、凹巷並に田伯養《でんはくやう》、孫孟綽《そんまうしやく》の四人が若狭より丹後に入り、天橋立を看、大江山を踰《こ》えて帰つた。竹里に還つたのは四月十七日であつただらう。「初夏三日、与諸君取道湖西、抵越前角鹿津、与河池二君別、余輩経若狭、入丹後、観天橋、踰大江山帰、往来十有五日」と、樵歌に記してある。伊勢の看松《かんしよう》が杖を霞亭に贈つて、凹巷はそれを持つて来たので、霞亭は携へて天橋立に遊んだ。所謂|蘆竹杖《ろちくぢやう》である。諸友の句を題した中に、「昔游観物最難忘、想倚天橋松影碧」と云ふのがある。これは凹巷の七律の七八である。凹巷と田孫二人とが辞し去る時、霞亭はこれを勢田の橋に近い茶店《ちやてん》まで送つた。「長橋短橋多少恨。満湖風雨送君帰。」
霞亭は六月に至るまで竹里に居つた。次で事があつて、京の街に住むこと二十余日にして、又嵯峨に帰つた。そして再び幽篁書屋《いうくわうしよをく》に入ることをなさずに、任有亭《にんいうてい》に寄寓した。嵯峨生活の中期は此に始まる。樵歌に「予因事徙居都下二旬余、不堪擾雑、復返西峨、寓任有亭、翌賦呈宣上人」の詩がある。宣上人《せんしやうにん》は僧月江である。後に「予在任有亭宛百日、初冬八日将移林東梅陽軒」と云ふを見れば、任有亭に入つたのは六月二十八日であらう。これは前後のわたましの日をも算入して百日となしたのである。
任有亭は享保中僧|似雲《じうん》の住んだ故跡
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