」、第3水準1−87−88]瑰源先生」と云つてある。わたくしは未だ北条氏の系譜を見ぬから、彦と惟長と孰《いづれか》長、孰幼なるを知らない。しかし霞亭は自ら彦を称して「予次弟」と云つてゐる。これは直《すぐ》次《つぎ》の弟と解すべきではなからうか。此見解は山陽が「考(適斎)以次子立敬承家」と書したのと或は合はぬかと疑はれる。但し山陽は後に既成の迹より見て筆を下《くだ》したかも知れない。霞亭が遊学したのと、適斎が霞亭の嫡《てき》を廃し、代ふるに惟長立敬を以てしたのとは、必ずしも同時ではないかも知れない。山陽は彦が既に早世してゐたので、其次の惟長を次子と称したかも知れない。源※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]瑰は未だ考へない。要するに彦は、歿年より推すに、十五歳にして京都に来り、十九歳の兄霞亭と同居したものとおもはれる。

     その百四十一

 北条霞亭が京都に遊学した第二年、寛政十年には猶霞亭の筆に上《のぼ》つた一条の軼事《いつじ》がある。それは皆川淇園が歿してから一年の後、文化五年戊辰十一月に記して、後渉筆中に収めたものである。「十年前。余在京師。一日従先師淇園先生遊東山。路由京極御門。過一縉紳家門。先生乃指示曰。此万里小路氏也。又指示其西北隅之門曰。建武中。中納言避世。遁北山。微服従此出。其家哀慕其人。不忍出入其門。関鑰不肯啓。雖第邸変徙。旧制尚存。即此。余聞之。恍爾想像当時之艱。吁嗟不能已。爾後毎過其側。未曾不粛爾起敬矣。按太平記。藤房既知諫之不可行。特詣内廷拝帝。比退朝。直赴北山。是或一伝也。」
 霞亭は藤房を以て我国宋儒の最初の一人として尊崇してゐた。通途《つうづ》の説に従へば、始て朱註の四書を講じたものは僧|玄慧《げんゑ》で、花園、後醒醐両朝の時である。然るに霞亭は首唱の功を藤房の師|垂水《たるみ》氏に帰してゐる。わたくしは垂水氏の事を詳《つまびらか》にせぬが、往古唐通詞の家であつたらしい。霞亭は「四書集註、初伝播我邦、垂水広信崇信読之、藤房従而受業、或云、玄慧法師始講之、藤房玄慧同時与交、則其授受固当相通」と云つてゐる。
 遁世後の藤房に就いては、霞亭は妙心寺六祖伝の僧|宗弼《そうひつ》を以て藤房とする説を取つてゐない。即ち今の史家の説に合してゐる。霞亭は一家の想像説を立てて、藤房は北山より近江国三雲に往き、其後越前国鷹巣山に入り、其後土佐国に
前へ 次へ
全567ページ中228ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
森 鴎外 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング