稟」、7巻−278−下−1]、数十年所読、唯一部傷寒論、其所発明、註成六巻、既梓行世」と云つてゐる。
 文台は霞亭の初て従遊した時四十三歳であつた。それは十八歳の霞亭が「長予二十五歳」と云つてゐるので知られる。霞亭の云く。「予年十八遊京師。初見先生。時時就質傷寒論之疑義。先生長予二十五歳。折輩行交予。遇我甚厚。毎語人曰。夫人雖少。志気不凡。必当有為。」霞亭のためには、文台は獲易からざる知音であつた。
 霞亭は京都に学んだ頃、心友韓凹巷を獲、又|長孺《ちやうじゆ》、仲彜《ちゆうい》、遠恥《ゑんち》の三人と交つた。長孺は堀見|克礼《こくれい》さんの言《こと》に従へば、清水氏、号は雷首《らいしゆ》、通称は平八ださうである。遠恥、名は恭《きよう》、号は小蓮《せうれん》、鈴木氏、修《しう》して木《ぼく》と云つた。所謂|木芙蓉《ぼくふよう》の子である。仲彜は越後国|茨曾根《いばらそね》の人関根氏であるらしい。長孺、仲彜の事は凹巷の五古に、「幸為同門友、一朝接清規、(中略、)有時過我廬、吟興黙支頤、(中略、)憶曾長孺宅、邀君奏※[#「土へん+員」、第3水準1−15−57]※[#「たけかんむり/「虎」の「儿」に代えて「几」」、7巻−279−上−2]、豪爽人倶逝、長孺及仲彜」と云つてある。遠恥の事は渉筆に、「弱冠負笈西遊、予時在京師、相見定交、同筆硯殆半年」と云つてある。若しその霞亭との交が、早く霞亭京遊の第一年に於てせられたとすると、正に十九歳になつてゐた。
 霞亭は京に上《のぼ》つた年の暮に一たび帰省した。渉筆に云く。「寛政丁巳十二月。予出京赴郷。会天陰風粛。比過山科村。微雪飄瞥。点綴翠竹碧松之梢。寒景蕭散可愛。須臾愁雲四合。雪大如拳。積素満径。幾欲没腰。顛倒踉蹌。走就鶴浜茶店。卸担踞竈。以燎湿衣。少焉風止雲朗。予推窓試観。則天台比良三上諸峰。如白玉削成。園城寺之仏観法塔。如瓊宇瑤台。涌出霄漢之間。湖面一帯。倒暎揺蕩。宛若銀竜矯矯盤旋。令人心胆澄徹。坐作登仙之想。真奇観也。至今一念其境。恍如身在其中。雖盛夏酷暑。煩悶之苦堪頓忘矣。」
 霞亭が京都に遊学してゐた第二年、寛政十年に霞亭の弟|彦《げん》が的屋から出て来た。そして霞亭の友|源※[#「王+攵」、第3水準1−87−88]瑰《げんまいくわい》と云ふものに師事した。渉筆に彦の事を叙して、「寛政戊午遊学京師、師事友人※[#「王+攵
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