。霞亭の曾祖父道益の弟僧|了普《れうふ》の事を紀《き》したものである。了普の伝は僧真栄の伝と混淆して、二人の同異を辨じ難い。西村は「子譲初欲自書栄公事、顧命予其撰」と云つてゐる。西村維祺は或は驥※[#「蠢」の「春」に代えて「亡」、第3水準1−91−58]《きばう》日記の西村|子賛《しさん》ではなからうか。此篇は霞亭の世系を説くこと、墓誌に比すれば稍《やゝ》詳である。わたくしはこれを読んで、始て内藤侯とは或は此人ではなからうかと云ふ、微《かすか》なる手がかりを得た。
その百三十九
西村維祺は北条霞亭の曾祖父道益の弟僧了普が事を紀《き》する文にかう云つてゐる。「予友北条子譲先。嘗事鳥羽内藤侯。及侯亡。提家隠于的屋。」此句の下《しも》に、「時北条省為北氏、或称喜多」と註してある。
霞亭の遠祖の主家内藤某は鳥羽に封ぜられてゐた。内藤氏の城池のある鳥羽とは何処か。角利助《すみりすけ》さんの説くを聞くに、鳥羽は的屋より程遠からぬ志摩国鳥羽で、封を除かれた内藤氏は延宝八年六月二十七日に死を賜はつた内藤和泉守忠勝である。
北条氏の的屋に住んだのは、内藤氏の亡びた後である。此時一旦北条を改めて北と云ひ、又喜多とも書した。山陽は「曾祖道益、祖道可、考道有、皆隠医本邑」と書してゐる。要するに曾祖以後は皆的屋の医であつた。道益の弟僧了普は三箇所村|棲雲庵《せいうんあん》に住んで、寛保三年某月二十六日に寂した。然るに此了普と僧真栄との事蹟が混淆して辨じ難くなつてゐる。西村は「栄普二公、其跡迷離」と云つてゐる。唯真栄は享保七年九月七日に寂して、北岡に碑があり、了普は棲雲庵に碑がある。西村は「的是両人」と断じ、「或疑了普学書於真栄、以其善書、世亦直称無量寺也歟」と追記してゐる。越坂《をつさか》の無量寺は真栄終焉の地である。
霞亭の父道有は適斎と号した。山陽は「娶中村氏、生六男四女」と云つてゐる。帰省詩嚢を見れば、適斎は文化十三年丙子に七十の寿宴を開いた。神辺《かんなべ》から帰つて宴に列つた霞亭は、「三弟及一妹、次第侍厳慈」と云つてゐる。寿を献じたものは長子霞亭以下の男子四人と女子一人とであつた。霞亭の弟の中維長立敬は適斎の継嗣である。山陽は「以次子立敬承家」と云つてゐる。
霞亭は安永九年に生れた。適斎が三十四歳にしてまうけた嫡男である。
霞亭は幼《いとけな》かつた時の家
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