足軽が重病を発したのである。証候《しようこう》は喀血若くは吐血であつた。敬の一行は医を延《ひ》いて治を求め、留宿一日、費金三両で此難をも脱することを得た。
敬等は大坂に著いた。菅茶山は神辺にあつてこれを聞いた。そして書を裁して蘭軒に報じたのである。茶山は敬等が此年文政六年十一月二十四日に神辺に帰り著くことを期してゐた。
江戸には未亡人敬の帰り去つた後、猶|亡《ばう》霞亭のために処理すべき事があつたと見える。茶山は蘭軒に、「北条事に付これはかくせよ、かれはいかがせよと被仰下たく候」と委嘱してゐる。霞亭の葬られた寺の事、北条氏の継嗣の事等であつただらう。巣鴨の真性寺に、頼山陽の銘を刻した墓碣《ぼけつ》の立てられたのは、此より後九年であつた。浜野知三郎さんの言《こと》に拠るに、「北条子譲墓碣銘」は山陽の作つた最後の金石文であらうと云ふことである。霞亭の家は養子|退《たい》が襲いだ。山陽は「河村氏子退為嗣、即進之」と云ひ、「其子進之寓昌平学」と云つてゐる。所謂河村氏は嘗て文部省に仕へた河村|重固《しげかた》と云ふ人の家で、重固の女《ぢよ》が今の帝国劇場の女優河村菊枝ださうである。
霞亭の遺事は他日浜野氏が編述し、併て其遺稿をも刊行する筈ださうである。わたくしは上《かみ》に云つた如く、浜野氏に就いて既刊の霞亭の書二三種を借り得たから、読過の間にわたくしの目に留まつた事どもを此に插記しようとおもふ。人若しその道聴途説《だうていとせつ》の陋《ろう》を咎むることなくば幸である。
山陽は霞亭の祖先を説いて、「其先出於早雲氏」と云つた。霞亭も亦自ら其家系を語つてゐる。渉筆に云く。「昔吾家宗瑞入道。嘗召一講師読七書。首聴三略主将之法務攬英雄之心句。断然曰。吾已領略。其他不欲聞之。英豪之気象。千載如生。而斯語也。実名言也。為将帥者不可不服膺。」軼事《いつじ》は今人の皆知る所である。わたくしの此に引いたのは、その霞亭の筆に上つたためである。
次に山陽は「後仕内藤侯、侯国除」と云つてゐる。そして「志摩的屋人」の句は先祖を説くに先だつて下《くだ》してある。文が頗る解し難い。所謂「内藤侯」の何人《なにひと》なるかは、稍《やゝ》史に通ずるものと雖、容易に知ることが出来ぬであらう。わたくしは山陽が強て人の解することを求めなかつたのではないかと疑ふ。
渉筆に西村|維祺《ゐき》の文が載せてある
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