承度候。御きき可被下候。」
「余に一も申上べき事なし。春以来大旱雨なし。雷は一年一声もきかず候。或云。遙雷はなりたれども老聾《らうろう》きこえざるなりと。筑前は十月廿四日大雷大雨と申こと。雨は八月に少々ふり、其後まだふらず、冬之大旱也。御地は雨しげく候よし、ふるもふらぬもさだめなき世の中也。」
 霞亭の妻井上氏は、頃日《このごろ》福田禄太郎さんを介して、黒瀬格一さんに検してもらつた所に徴するに、名は敬《きやう》である。菅波久助の次女、茶山の妹、井上源右衛門の妻にちよと云ふものがあつた。此ちよの三女が敬である。
 久助の次男、茶山の弟猶右衛門|汝※[#「木+便」、第4水準2−15−14]《じよへん》に、一子長作万年があつた。万年は初め井上源右衛門の次女さほを娶り、さほの歿後に其妹敬を納れた。万年が歿して、敬が寡居してゐたのを、茶山が霞亭に妻《めあは》せた。
 敬が霞亭に随つて江戸に向ふとき、茶山は何事をも蘭軒に相談せよと言ひ含めた。茶山は所謂「鈍物」の上を気遣つて蘭軒に託したのであつた。浜野知三郎さんの語る所に拠れば、辛巳の歳に霞亭は一たび江戸に来て、尋《つい》で神辺へ敬を迎へに帰つたさうである。しかし敬が嚢里の家の落成に先《さきだ》つて来てゐたことは、移居の詩に「家人駆我懶」と云ひ、「団欒対妻孥」と云つてあるを見て知られる。

     その百三十七

 北条霞亭と其妻敬とが辛巳の歳に江戸に来てから、此年癸未に至るまで、足掛三年の間、蘭軒の家と往来してゐたことは明である。霞亭が菅茶山の書牘を剪《き》り断つて蘭軒に示したことは、上《かみ》に云つた如くである。
 しかし敬が果して、茶山の誨《をし》へた如くに、蘭軒を視ること尊属に同じく、これに内事を諮《はか》つたかは疑はしい。少くも此の如き証跡は一も存してゐない。
 さて此年八月十七日に霞亭は病死した。主家阿部氏に於ては、正精《まさきよ》が病と称して事を視ざるに至つてから、四五箇月の月日が立つてゐる。霞亭は解褐《かいかつ》以来未だ幾《いくばく》ならぬに死んだ。しかも主家に事ある日に死んだ。其臨終の情懐を想へば、憐むべきものがある。
 わたくしは霞亭に痼疾のあつたことを聞かない。其死を致した病は恐くは急劇の症であつただらう。わたくしは唯霞亭が酒を嗜《たし》んだことを知つてゐる。酒を嗜むものは病に抗する力を殺《そ》がれてゐる
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