軒柏軒の二子及渋江抽斎、森枳園の二|弟子《ていし》の、蘭軒に代つて浄写した詩が夾雑してゐる事である。そして此年辛巳の夏より秋の半《なかば》に至る詩は抽斎の書する所の小楷《せうかい》である。
 抽斎は是より先文化十一年十歳にして蘭軒の門に入つてゐた。若し詩の浄写が其製作当時に於てせられたものとすると、是は抽斎十七歳の時の書である。蘭軒も自筆、棕軒侯、茶山の評も皆其自筆なるより推せば、わたくしは抽斎のこれを書した年の多く辛巳より遅れなかつたことを想ふ。只後年の補写で無いと云ふ確証を有せぬだけである。
 辛巳の夏の詩は二首である。初の「菖節小集」の絶句は蘭軒が五月五日に友を会し詩を賦したことを証する。「満座忻無独醒客。榴花那若酔顔紅。」
 後の「夏日偶成」の七律は此頃黒沢雪堂が蘭軒を招いたのに、蘭軒が辞したことを証する。詩の頷聯に、「病脚不趨官路険、微量難敵酒軍長」と云つて、「此日不応雪堂招飲、故第四及之」と題下に自註してある。
 黒沢雪堂、名は惟直《ゐちよく》、字《あざな》は正甫《せいほ》、正助《しやうすけ》と称した。武蔵国児玉郡の人で、父|雉岡《ちかう》の後を襲《つ》ぎ、田安家に仕へた。当蒔六十四歳になつて、昌平黌の司貨《しくわ》を職としてゐた。

     その百二十五

 此年文政四年の秋に入つて、蘭軒の冢子《ちようし》榛軒が初て阿部正精に謁した。勤向覚書の文は下《しも》の如くである。「七月廿三日、左之願書相触流新井仁助を以差出候処、御受取被置候旨。口上之覚。私悴良安儀御序之節御目見被仰付被下置候様奉願上候。右之趣不苦思召候ば、御年寄御衆中迄宜被仰達可被下候以上。七月廿三日。伊沢辞安。大目付衆御中。同日、前条に付左之年齢書指出す。覚。伊沢良安、当巳十八歳。右之通年齢にて御座候以上。七月廿三日。伊沢辞安。但糊入半切に認、上包半紙半分折懸、上に年齢書、下に名。同月廿七日、悴良安明廿八日初而御目見被相請候に付私召連可罷出処、足痛に付難罷出、左之通及御達候。口上之覚。私悴良安儀明廿八日初而御目見被為請候に付召連可罷出処、足痛に付名代新井仁助差出申候、此段御達申上候以上。七月廿七日。伊沢辞安。同月廿八日、悴良安儀初而御目見被仰付候。」初謁の日は七月二十八日であつた。其|請謁《せいえつ》の形式は、父蘭軒に足疾があつて替人《ていじん》をして榛軒を伴ひ往かしめたために、幾分の煩し
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