た絶句がある。「時人久已棄荘樗。老去隣翁亦自疎。豈意東都千里客。穿来蘆葦覓吾廬。」
その百二十四
狩谷※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子は此年文政四年五月二十二日に、三原をさして神辺《かんなべ》を発した後、いづれの地を経歴したか、今わたくしの手許にはこれを詳《つまびらか》にすべき材料が無い。菅茶山は「八幡にて古経を見、宮島にて古経古器を見ると申こと」と云つてゐる。しかし※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎が能くこれを果したかどうか不明である。兎に角茶山が「京祇園会に必かへると申こと」と云つてゐるより推せば、兼て茶山の勧めてゐた長崎行は此旅の計画中に入つてゐなかつたものと見るべきであらう。
祇園会《ぎをんゑ》は六月七日である。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子は果して此日に京都まで引き返してゐたかどうか、これを知ることが出来ない。辛巳の歳の五月は大であつたから、其二十二日より六月七日に至る総日数は十六日間であつた。茶山が「間に逢かね候覧」と云つて危んだのも無理は無い。
※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子の此漫遊中、右の五月二十二日以後に月日の明なるものが只一つある。それは六月二十五日に法隆寺|西園院《さいをんゐん》にゐたと云ふことである。即ち神辺を立つてから第三十一日である。
わたくしの三村氏を煩はして検してもらつた好古小録の填註に、既に引いたものの外、猶左の数箇条がある。
「好古小録法隆寺上宮太子画像。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎曰。文政四年六月観。」
「同施法隆寺物数書。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎曰。文政四年六月二十五日法隆寺西園院にて観。」
「同円光大師絵詞。※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎曰。文政四年七月観。」
最後の一条を見れば、※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎父子が秋に入つて猶奈良に留まつてゐたことが知られる。此より後父子の江戸に還つたのが、まだ冬にならぬ前であつた証跡は、※[#「くさかんむり/姦」、7巻−249−下−7]斎詩集に見えてゐるが、それは後に記す。
わたくしは此より蘭軒の事蹟に立ち帰つて、夏より後の詩集を検する。此時に当つてわたくしは先づ一事を記して置きたい。それは富士川氏蔵の詩集は蘭軒自筆本であるのに、所々に榛
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