を推度《すゐたく》した。わたくしは猶此に梅泉の画を江稼圃《こうかほ》に学んだ年に就いて附記して置きたい。
梅泉は長崎の人である。稼圃が来り航した時、恐くは多く居諸《きよしよ》を過すことなく従学したであらう。田能村竹田の山中人饒舌に「己巳歳江大来稼圃者至」と書してある。己巳は文化六年である。梅泉は恐くは文化六年に二十四歳で稼圃の門人となつたのであらう。
然るに此に一異説がある。それは稼圃の長崎に来たのを聞いて直に入門したと云ふ人の言《こと》を伝へたものである。森敬浩《もりけいかう》さんは川村雨谷を識つてゐた。雨谷の師は木下逸雲である。雨谷は毎《つね》に云つた。逸雲と僧鉄翁との江が門に入つたのは、逸雲が十八歳の時であつたと云つた。逸雲は慶応二年に江戸より長崎に帰る途次、難船して歿した。年は六十七歳であつた。此より推せば、逸雲は寛政十二年生で、其十八歳は文化十四年であつた。逸雲と鉄翁との江が門に入つた年が果して江の来た年だとすると、江は文化十四年に至つて纔《わづか》に来航したこととなるのである。
しかし此両説は相悖《あひもと》らぬかも知れない。何故と云ふに長崎にゐた清人《しんひと》は来去数度に及んだ例がある。文化六年に江が初て来た時は、逸雲は猶|穉《をさな》かつた。それゆゑ十四年に江が再び至るを俟《ま》つて始て従遊したかも知れない。只わたくしは江の幾たび来去したかを詳《つまびらか》にしない。或は津田繁二さんの許《もと》にはこれを徴するに足る文書があらうか。
わたくしは此《かく》の如く記し畢つた時、市河氏の書を得た。梅泉の市河米庵に与ふる書、並に大田南畝の長崎にあつて人に与へた書に拠れば、稼圃が初度の来航は文化元年甲子の冬であつたさうである。梅泉が其時従学したとすると、年正に十九であつた。
その百一
劉梅泉が文政二年の八月に歿してから七年経て、九年の冬田能村竹田は長崎に往つた。そして梅泉の母に逢つた。「有母仍在。為予説平生。且道。毎口予名弗措。説未畢。老涙双下。」
按ずるに母は游竜市兵衛の妻ではなくて、彭城《さかき》仁兵衛の妻であらう。養母ではなくて実母であらう。そして若し更に墓石に就いて検したなら、実母の名、其歿年、その竹田と語つた時の齢《よはひ》をも知ることが出来るであらう。
竹田と梅泉とは恐くは未見の友であつただらう。竹田は「屡蒙寄贈、且促
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