に必ずしも避くべき字では無い。茶山は戯謔《けぎやく》したに過ぎない。
茶山は朝顔の奇品を栽培してゐたが、人に種子《たね》を与へて惜まなかつたので、種子が遂に※[#「磬」の「石」に代えて「缶」、第4水準2−84−70]《つ》きた。「はやらぬ時はあり。はやる時はなし。晋帥骨相之屯もおもふべし。」これは六三の「即鹿无虞」あたりから屯《じゆん》に説き到つたのであらう。
江戸の流行は十五六年にして京都に及び、京都の流行は十五六年にして江戸に及ぶ。「この蕣《あさがほ》は両地共一度也。いかなることや。」こゝまでは猶可である。重厚の風減じ、軽薄の俗長ず。「何さま昌平之化、可仰可感候。」これは余りに廉価なるイロニイである。
僧|混外《こんげ》も亦茶山の此書牘に見えてゐて、石田、岡本、田内、土屋の四人の名がこれに連繋して出てゐる。これは前年丙子の秋以来蘭軒が混外と往来するに至つた事を指して言つたものである。蘭軒が混外を評した中に僧の三瑕と云ふことがあつた。其一の「美僧はうけがたく候」と茶山が答へた。蘭軒が混外と相会した時、石田梧堂がこれを介したらしい。それゆゑ茶山は「梧堂つてにて御逢被成しや」と云つてゐる。蘭軒は前年初見の時の同行者として、梧堂を除く外、成田成章、大田農人、皆川叔茂を挙げてゐて、岡本、田内、土屋は与《あづか》らなかつた。或は再三往訪した時のつれか。茶山は岡本以下の知人が蘭軒と偕《とも》に金輪寺《こんりんじ》を訪うたのに、それを報ぜなかつたことを慊《あきたら》ずおもつた。「皆私知音之人、金輪へ参候時何之沙汰もなく残念に候。」
岡本忠次郎、名は成、字《あざな》は子省である。本近江から出た家で、父|政苗《まさたね》が幕府の勘定方を勤むるに至つた後の子である。忠次郎は南宮大湫《なんぐうたいしう》に学んだ。韓使のために客館が対馬に造られた時、忠次郎は董工のために往つてゐて、文化八年に江戸に還つた。茶山の手紙に書かれた時は職を罷める前年で、五十歳になつてゐた。
安中《あんなか》侯節山板倉勝明撰の墓碑銘に、忠次郎の道号として、豊洲、花亭、醒翁、詩癡、又|括嚢《くわつなう》道人が挙げてある。此中で豊洲、花亭、醒翁の号が茶山の集に見えてゐる。既に老後醒翁と号したとすれば、茶山のために竜華寺《りうげじ》の勝を説いた岡本醒廬も或は同人ではなからうか。
その九十八
菅
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