とは旧に依つて渥《あつ》かつたのである。翌年元旦の詩の引に、蘭軒はかう書いてゐる。「乙亥十二月請免侍医。即聴補外医。藩人凡以病免職者。俸有減制。余特有恩命。而免減制云。」
 此年の暮るゝに至るまで、蘭軒は復《また》詩を作らなかつた。茶山には数首の作があつて、其中に古賀精里に寄する畳韻の七律三首等があり、又|除夕《ぢよせき》の五古がある。「一堂蝋梅気、環坐到天明」は後者末解の二句である。
 頼氏の此年の事は、春水遺稿の干支の下に最も簡明に註せられてゐる。「乙亥元鼎夭。以孫元協代嗣。君時七十。」夭したのは春風|惟疆《ゐきやう》の長子で、養はれて春水の嗣子となつてゐた権次郎|元鼎新甫《げんていしんほ》である。これに代つたのは山陽が前妻御園氏に生ませた余一|元協承緒《げんけふしようちよ》、号は聿庵《いつあん》である。春水は病衰の身であるが、其病は小康の状をなしてゐた。除夕五律の五六にかう云つてある。「奇薬春回早。虚名棺闔遅。」
 此年蘭軒は年三十九、妻益は三十三、榛軒は十二、常三郎は十一、柏軒は六つ、長は二つ、黒田家に仕へてゐる蘭軒の姉幾勢は四十七である。

     その八十四

 文化十三年には、蘭軒は新に賜はつた丸山の邸宅にあつて平穏な春を迎へた。表医師に転じ、復《また》宿直の順番に名を列することもなく、心やすくなつたことであらう。「丙子元日作。朝賀人声侵暁寒。病夫眠寤日三竿。常慚難報君恩渥。却是強年乞散官。」題の下に自註して躄痿《へきゐ》の事を言ひ、遷任の事を言つてゐるが、既に引いてあるから省く。
 茶山も亦同じ歳首の詩に同じ間中の趣を語つてゐる。年歯の差は殆三十年を算したのであるが、足疾のために早く老いた伊沢の感情は、将に古稀に達せむとする菅の感情と相近似することを得たのである。「元日。彩画屏前碧澗阿。新禧両歳境如何。暁趨路寝栄堪恋。夜会郷親興亦多。」江戸にあつて阿部侯に謁した前年と、神辺《かんなべ》にある今年とを較べたのである。
 尋で蘭軒に「豆日草堂集」の詩があれば、茶山に「人日同諸子賦」の詩がある。わたくしは此に蘭軒の五律の三四だけを抄する。それは千|金方《きんはう》を講じたことに言及してゐるからである。「恰迎蘭薫客。倶披華表経。」
 二月十九日に広島で頼春水が歿した。年七十一である。前年の暮から悪候が退《しりぞ》いて、春水自身も此の如く急に世を辞することを
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