十三

 蘭軒は菅茶山に告ぐるに、市野三右衛門、狩谷三右衛門、余語古庵《よごこあん》の時々来り訪ふことを以てした。茶山は蘭軒のこれによつて寂寥を免るゝを喜び、乙亥十月の書牘《しよどく》に「六右衛門、古庵様などへ一同宜」しくと云つてゐる。
 蘭軒は又茶山に迷庵三右衛門の麦飯学者の説と云ふものを伝へた。わたくしはその奈何《いか》なる説なるかを知らぬが、茶山は「歎服いたし候」と挨拶してゐる。世間に若し此説を見聞した人があるなら、わたくしは其人に垂教を乞ひたい。
 茶山の此書を読んで、わたくしは頼|竹里《ちくり》が此年文化十二年に江戸より広島へ帰り、※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]居して徒《と》に授けたことを知る。頃日《このごろ》わたくしに無名の葉書を投じた人がある。消印の模糊たるがために、わたくしは発信者の居処をだに知ることが出来ない。葉書は単に鉛筆を用《もつ》て頼氏の略系を写し出したものである。此に竹里の直接尊卑属を挙ぐれば、「伝五郎惟宣、千蔵公遷、常太綱」であつて、諸書の載する所と何の異なる所も無い。しかし此三人の下《もと》には各《おの/\》道号が註してある。即ち惟宣《ゐせん》は融巌《ゆうがん》、公遷は竹里、綱《かう》は立斎である。思ふにわたくしに竹里の公遷たることを教へむと欲したものであらうか。惜むらくは無名氏のわたくしに捷径を示したのは、わたくしが迂路に疲れた後であつた。
 茶山の書には猶数人の名が見えてゐる。直卿は初め臼杵《うすき》氏、後牧氏、讚岐の人で、茶山の集に見えてゐる。其他軽浮にして「時々うそをいふ」源十、矢代某に世話を頼んでもらつた主計《かぞへ》、次に竹里に狐の渾名《あだな》をつけられた某である。此等源十以下の人々は皆|輙《たやす》く考ふることが出来ない。
 此年十二月十九日に、蘭軒は阿部|正精《まさきよ》に請ふに間職に就くことを以てし、二十五日に奥医師より表医師に遷された。「十二月十九日、私儀去六月下旬より疝積其上足痛相煩引込罷在候而、急に出勤可仕体無御坐候に付、御機嫌之程奉恐入候、依之此上之以御慈悲、御番勤御免被下、尚又保養仕度奉願候所、同月廿五日此度願之趣無拠義被思召、御表医師被仰付候。」これが勤向覚書の記する所である。
 奥医師より表医師に遷るは左遷である。阿部侯は蘭軒の請によつて已むことを得ずして裁可した。しかし蘭軒を遇するこ
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