候へかしといのり申候。かしこ。右御おくさま。太中。」
「おさよどのへ申候。たび/\参候ていろ/\さしつかひ候御せわのだん申つくしがたく候。ずゐぶん御すこやかに御せわなさるべく候。」
「又。」
「麻布令兄御|女子《によし》御両処へ宜奉願上候。」
「又。」
「古庵様、卿雲、市野、服部、小山諸君へ御会合之度に宜御申可被下候。市川は別に一書あり。」
以上長四尺|許《ばかり》の半紙の巻紙に書いた書牘《しよどく》の全文である。蠧蝕《としよく》の処が少しあるが、幸に文字を損ずること甚しきに至つてゐない。
その七十九
此書牘、文化乙亥の茶山の第一書に、主要なる人物として北条譲四郎の出て来たのは、恰《あたか》も庚午の書に頼久太郎の出て来たと同じである。わたくしは第一書と云ふ。これは此歳の初冬には茶山が更に第二書を蘭軒に寄せたからである。
北条譲、字《あざな》は子譲《しじやう》又景陽、霞亭、天放等の号がある。志摩国|的屋《まとや》の医師道有の子に生れた。弟|立敬《りつけい》に父の業を襲《つ》がせて儒となつた。乙亥には三十六歳になつてゐた。
茶山が前年の夏より此年の春に至るまで、江戸に旅寝をした間、北条を神辺《かんなべ》の留守居に置いたことは、黄葉夕陽村舎詩にも見えてゐる。百|川楼《せんろう》に勝田|鹿谷《ろくこく》の寿筵があつた。茶山は遅く往つた。すると途上で楼を出て来た男が茶山を捉へて、「お前さんは菅茶山ぢやないか、わしは亀田|鵬斎《ぼうさい》だ」と云つた。二人は曾《かつ》て相見たことはないのである。鵬斎は茶山を伴つて、再び楼に登つた。茶山は留守居の北条が鵬斎を識つてゐるので、自ら鵬斎に贈る詩を賦し、鵬斎の詩をも索《もと》めて、北条に併せ送つた。「陌上憧々人馬間。瞥見知余定何縁。明鑑却勝※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1−91−82]季野。歴相始得孟万年。拏手入筵誇奇遇。満堂属目共歓然。儒侠之名旧在耳。草卒深忻遂宿攀。吾郷有客与君善。遙知思我復思君。余将一書報斯事。空函乞君附瑤篇。」拏手《たしゆ》筵《えん》に入るの十四字、儒侠文左衛門の面目が躍如としてゐる。読んで快と呼ぶものは、独り此詩筒を得た留守居の北条のみではあるまい。
鵬斎が茶山を通衢上《つうくじやう》に捉へて放さなかつた如く、茶山は霞亭を諸生間に抜いて縦《はな》つまいとした。「わたくし女姪二
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