して見る。「頼公遷、省いて遷とも云ふ、字《あざな》は子善、通称は千蔵、別号は竹里、又養堂。」

     その六十一

 菅茶山の書中には猶其十三庄兵衛と云ふ人物が出てゐる。庄兵衛は茶山の旧僕である。茶山の供をして江戸に往つて蘭軒に識られ、蘭軒が神辺に立ち寄つた日にも、主人に呼ばれて挨拶に出た。書牘《しよどく》は、殆ど作物語の瑣細な人物の落著をも忘れぬ如くに、此庄兵衛の家を成し業を営むに至つたさまをも記してゐる。
 其十四として茶山の言《こと》は所謂《いはゆる》「亡弊弟」に及んでゐる。即ち茶山の季弟|恥庵晋宝信卿《ちあんしんぱうしんけい》、通称は圭二《けいじ》である。茶山の行状等には晋宝が「晋葆」に作つてある。
 茶山は書肆に詩を刻することを許すとき、恥庵の遺稿を附録とすることを条件とした。小原業夫《こはらげふふ》の序にも同じ事が言つてある。「先生曰。我欲刻亡弟信卿遺稿。因循未果。彼若成我之志。則我亦従彼之乞。書肆喜而諾。乃斯集遂上木。附以信卿遺稿。」大抵詩を刻するものは自ら貲《し》を投ずるを例とする。古今東西皆さうである。然るに茶山は条件を附けて刻せしめた。「銭一文もいらず、本仕立御望次第と申候故許し候」と云つてある。其喜は「京師書肆河南儀平損金刊余詩、戯贈」の詩にも見えてゐる。「曾聞書賈黠無比。怪見南翁特地痴。伝奇出像人争購。却損家貲刻悪詩。」小説の善く售《う》れるに比してあるのは妙である。小原も亦云つてゐる。「余嘗聞袁中郎自刻其集。幾売却柳湖荘。衒技求售。誰昔然矣。先生之撰則異之。不自欲而書肆乞之。乞之不已。則知世望斯集。不翅余輩。」誰昔然矣《すゐせきよりしかり》は陳風墓門《ちんぷうぼもん》の章からそつくり取つた句である。爾雅《じが》に「誰昔昔也」と云つてある。
 黄葉夕陽村舎詩が附録恥庵詩文草と共に刻成せられたのは文化九年三月である。此手紙は「ほらせ候積に御座候」と云つてあるとほり、上木《しやうぼく》に決意した当時書かれたもので、小原の序もまだ出来てはゐなかつたのである。
 狩谷氏では此年文化七年に※[#「木+夜」、第3水準1−85−76]斎の女《ぢよ》俊《しゆん》が生れた。後に同齢の柏軒に嫁する女である。伊沢分家の人々は、此|女《ぢよ》の名は初めたかと云つて、後しゆんと更めたと云つてゐる。俊は峻と相通ずる字で、初めたかと訓ませたが、人は音読するので、終に人
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